「定年後に『孤立した迷惑老人』となるオジサンに共通すること」という記事を読み、これは表題より極めて一般性のある話だと感じたので話題として取り上げたい(すなわち、以下の記事は例えば「老害」なるものに関するものではない)。
私はしばしば短絡的な自己責任論というものを批判してきた(ちなみに、日本人は政府の扶助を得ることを是としない人間が、あの自己責任大国アメリカより圧倒的に多いことが統計データによって知られている)。もちろん、何でもすぐ社会なり何なり他者のせいにする姿勢を生産的とは言えないだろう。しかし、例えば正しい知識がないことに関してなら、「それがどうすればより共有されやすくなるかを考え提案する」のが社会性というものだ。つまり、そういった人々は社会問題について語りながら、その実ただ社会に己を無批判に投影・拡張しているだけであり、そこには他者性のかけらもない。
思うにそういった人々は、人間(理性)というものを信じすぎなのではないか(もっと言えば、世界理解がナイーブに見える。これは『ゆかいな仏教』の感想で書いたことともつながる)。歴史を顧みるまでもなく、人間とはそも非合理的な生き物である。またそれなりに合理的・戦略的思考をしようとしている人であっても、周辺の環境が変わりその理性が十全に発揮できなければ、「論理的に誤った結論を導き出す」ということをしばしば行うものなのだ。そういった人間の、人間理性の脆弱性というものについて余りにも無知すぎるのではないか(たとえば、失職した人を自己責任として非難するとして、一体どこまでが正当性のあるものなのか。今回のコロナウイルスの案件もそうだが、どこまで自己責任でどこからが己で対処し難い=他責すべきものなのか、そう截然と決められるとでも思っているのだろうか?そして、その人は一体どれだけこれまで合理的・戦略的思考をできてきたのか、あるいはできなかった時それを全て己の責任として引き受けてきたのか、と問いたい[端的な例として、学生の時に人生設計のために合理的行動を取り続けたと胸を張れる人は一体どれだけいるのだろうか?]。そして次に、そのような思考態度を皆が取ることが、本当に社会を良き方向に向わせるのか、と問いたい)。
・・・と書いてはみたが、まあ今の社会の趨勢が変わることはそうないだろう。なぜなら、短絡的な自己責任論(という事実上のミーイズム)を乗り越える機会は社会に存在せず、あるように見えてもそれは、天下国家を論じたり、どこかの国や勢力を攻撃し溜飲を下げることで得られるインチキ自己肯定ばかりだからだ(地政学や未来を見据えた外交政策といった戦略的思考が重要なのは言うまでもないが、とはいえ今述べたケースは、大いなるものを論じることでその実不安から逃走しているだけでしかない)。そしてこれから日本が衰退していけば、その傾向は強まりこそすれ弱まることはないだろう(日本社会の包摂機能は、共同体崩壊によってすでに相当脆弱になっていることはご存知の通りだ)。
では、そのような苦境において、「自己責任大国」日本の人々はどう反応するか?冒頭の記事から引用してみたい。
多くのケースを支援してきて、うつから復活する人、引きずる人、その違いは、「人間への価値観を緩められるかどうか」だと感じます。人はうつになったとき、何を学んで立ち上がっていくのでしょう。
自分も他者も含めて「人間というものは、なかなか思い通りにはならないな」「理屈で理解しようとしても、感情に振り回されるものなんだな」という現実をしっかり認めて受け容れられた人は、必ず復活し、その後のストレスに対しても簡単には折れない心の軸を身につけていきます。
ところが、「うつになった自分」を認められないまま、治療を受けたり職場環境の調整で「表面的に復活」した人は、その気になれば困難は克服できる、と、自分にも他者にも相変わらず厳しいままです。無意識的に、うつだったことを「自身の人生の汚点」ととらえています。自分に対する価値観、人に対する価値観を緩めることができないので、大きなストレスに遭遇したとたんに対人恐怖や自信の低下が強くなり、再びうつに吸い寄せられていきます。
(中略)
復活のときにカギを握るのが「目標の再設定」です。数カ月休み、出世競争の世界からいったん身をひいた人が社会に戻るときには必ず「目標の立て直し」、つまり、目指す山の見直しが必要になります。これまでのやり方で心が折れてしまったのだから、次からは、目標や、やり方を変えていきましょう、と、私はクライアントと併走しながら復活プランを立てていきます。
(中略)
新たな環境で一から人間関係を結ぶときには、これまで組織で培ってきた価値観を緩めないといけません。組織における生活で硬くなった心、ますます疲れやすくなる体への価値観も緩めなければいけません。このターニングポイントこそ、ゼロリセット。「目標の立て直し」と「歩み方の見直し」が必要になります。
(中略)
うつからのリハビリの中で、数多くの失敗、練習、学びの経験を重ねた人は、薬もカウンセリングも必要なくなる、うつからの卒業のタイミングになったとき、すっきりした表情で「先のことはわかりませんからねぇ」と言うようになります。
いくら入念に準備をしても、いろいろな予想外の事態が起こるのが現実社会というもの。必要以上に将来を悲観しても、準備に必死になっても、仕方がないところもあります。
我が身に起こるいいこと、嫌なことも「ほどほど」に楽しめるようになる、それが目指すべきゴールです。
いかがだろうか。私はこの文章を読んでいて、経済的衰退が確実な上に自己責任論をやめられない(+さらにそれが強まるであろう)日本は、これから間違いなく「地獄」が待っているだろうと確信を強めた。
それは「生活そのものの水準が発展途上国より低くなる」ということではない(まあ経済で観光の比重がでかくなってきた時点で、途上国モデルに近づいてきてんだけどね)。「多少豊かな生活をしていたとしても落とし穴がそこかしこにあり、はまったら助けてもらえるどころか袋叩きにされる」という社会が到来するということだ。それなら落とし穴にハマらなければどうということはないと思うかもしれないが、穴の数が日に日に増えてその深さも増し、さらに袋叩きにする人間の割合とその激しさも増せば、人の行動様式は「不安」・「不信」・「リスクヘッジ」に支配され、かくて日本にイノベーションが起こる可能性はさらに減退し、衰退に歯止めをかけることもできない、というわけだ(まあ大戦末期の日本みたいなもんですな)。
こうして日本は、自分たちで首を絞め合うという形で、ともに奈落への道を転がり落ちていくことであろう。そしてその処方箋がない以上は、能力のある者は海外に活動の場所を移し、そしてルサンチマンをため込む人々については、VRなどによって麻薬的にその不全感を解消し、「飼う」他なくなるのである。そうしたら、以下の動画のような状況になることを覚悟した方がよいだろう
もはや、他者と関係性を切り結ぶどころではなく、ノイズなき抱擁によってのみかろうじて生きられるだけの人間が量産される、というわけである。当然結婚・出産なんてリスクを犯すわけもない。当たり前だよなあ。私がしばしば書いているAIに依存した社会の描写は、人間理性を大して信じていないことや人類存続の必然性が論理的に存在しないという理解だけでなく、こういった現実を踏まえての、それなりに蓋然性が高いと考える予測なのである。
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