年収が低い人間が出費を抑えるため親元に住むのも、またその人間が結婚するために収入の高い人間を求めるのも、「リスクヘッジ」という意味においては合理的である(そして日本の場合はパラサイトシングル→「こども部屋おじさん」「こども部屋おばさん」のように、年収がそれほど高くない子どもが親元にそのまま住み続けることにより、「収入が低い人とでも(あるいはそれ同士で)早く結婚した方が生活上合理的である」というインセンティブが働かない、ということが述べられている)。
しかしそのリスクヘッジに、年齢といった自らの「市場価値」、あるいは他者に求める年収の平均値(や中央値)のデータに関する無知が加わった時、それは極端に言えば「事故に遭いたくないなら外に出なければいい」といったようなバカバカしい発想とさえ近似してくるのである。
そのような傾向は、少なくとも「偏ったリスクヘッジ思考が死屍累々の事態を生んだ」という認識が広がり、さらにはそれが正しいデータ共有の不可欠さと捉えられ、かつそれが学校教育のレベルでも当然のように教えられる時代が来るまで、進み続けるだろう(それは学校教育がレールに乗ることを重視するだけでなく、実際にドロップアウトすると戻るのが難しいという日本社会の特徴があり、さらにその周縁を短絡的な自己責任論が固める=愚鈍でない限りはリスクヘッジに走らざるをえない、という二重三重の構造になっているからである)。
私はよく日本社会の仕組みが大きく変わるには少なくとも半世紀が必要であると繰り返し書いているが、それは今述べたごとく「合理的であるがゆえ」袋小路に行き当たるまでは変化することができず、そして袋小路に行き当たってから変化するまで最低数十年の時が必要だからだ。
これが「若い人は海外に出れるようにしておいた方がよい」と書いている理由であり(ただし外に出ればユートピアがあるなどという発想は全く馬鹿げている)、また「ファスト教養」に批判的でありながらも、そういうスタンスに到る人が少なからず出てくるのは極めて必然的だと思う理由でもある。
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