昨日の記事は後半の方を眠りかぶって書いていたので、後半を大幅に加筆・修正してみた。
大学時代に読んだ小説の95%は筒井康隆だった。私のレビューは「作者が何を表現しようとしているのか、またそれをどのように表現しているのか」の考察を中心に据えているおり、この視点はおそらく筒井康隆の小説・批評に由来するが、その特徴は大きく言って二つに集約される。
1.筒井康隆自身による作品解題
2.筒井康隆の作風の幅広さ
1には『虚構船団の逆襲』や『着想の技術』などが該当する。例えば『逆襲』では批評家達の批判や誤読が反批判されているのだが、そこからいかに読み手は作者の主張を読めないかを知ると共に、筒井康隆が何を考えて虚構船団を書いたのかもよりはっきりと見えてきた。このような過程を経て、作者がどんなことを考えながらプロットを練ったり人物・風景描写を行っているのかを推測するのが当たり前だと考えるようになった(ちなみに、気に入ったゲームの設定資料などを私が必ず買うのは、そういう作者の主張などをよりはっきりと把握できるからである)。
2は筒井康隆の小説群について多少なりとも知識があればすぐにうなずくところだろう。とりあえず私のレビューに関連して重要なのは、筒井康隆が表現しようとするものに応じて文体などをガラリと変えてしまうという事実だ。主人公が三人称であるか一人称であるかという基本的なレベルに始まって、「陰悩録」の秀逸なひらがな文章、表現規制をパロった伏字だらけの文章、以前紹介した「日本地球ことば教える学部」の文章など実に幅広い(その他、「くさり」「敵」など数え上げればキリがない)。そして、ただ新しい・おもしろいということではなく、それぞれ効果と意味がしっかりと計算されているところがすばらしい(※1)。筒井康隆の様々な作品・文体に触れることで、表現しようとする内容に従って表現方法(「それをどのように表現しようとしているか」)もまた大きく変わるのだ、変えるべきだという考え方が身に付いた(※2)。プロットや文体への強烈な意識、またそれらが持つ効果の把握…筒井小説は(そのほとんどが)そういう点への自覚・こだわりにおいて他者の追随を許さない。いや、別次元に超越してしまったとさえ言えるかもしれない。以上のような、手法への明確な意識とこだわりに常に触れていたことが、私のレビューの視点に大きな影響を与えたと思われる。
※1
「高尚な」ものを好む人間は、こういったものをお気に召さない人が多いようだ。それが感覚的なものだと理解しているならいい。しかし、作品としてどうかという批評までもそれと同じレベルで論じようとするのはいかがなものか。その段階においては、文体などが表現したい内容と適合しているかどうか、といったことが重要ではないのか。そして特に問題なのは、そういった自分の違和感を理屈で正当化(解明ではない)しようとすることだ。自分に合わない、あるいは理解できないと思うのなら、「理解できない」と言っていればいいのだ(もっとも、それを生業としている場合そうもいかないのだろうが)。作品の表現したいものを考えず、表面に著されたものに対する自分の生理的不快感を、作品がよくないのだという方向に無理やり理屈でこじつけて批判するというやり方。それは私が忌み嫌うものの一つだ。それにしても、筒井康隆の作品をただのパロディとしてのみ捉え、例えばそこにある風刺の精神などが(その真価に比して)等閑視されてきたのは全く不思議なことだ。
※2
ちなみに、「あえて変えない」というのも技法の一つ。いきなりエロゲーの話に飛んで恐縮だが、例えば田中ロミオの「ユメミルクスリ」やType-moonの「月姫」では、明らかに異常な会話や反応をあえて淡々とさせることで、その違和感・異常性をより強く意識させることに成功している。私が感心したのは、前者は自殺の話で後者は琥珀のズレた反応、それぞれ1シーンずつ。例えば私たちは人の死がドラマティックに演出されることに慣れているが、それゆえ死がまるで日常の1イベントでしかないように(あるいはその事実を)描写されると、新鮮に感じられるものだ。
大学時代に読んだ小説の95%は筒井康隆だった。私のレビューは「作者が何を表現しようとしているのか、またそれをどのように表現しているのか」の考察を中心に据えているおり、この視点はおそらく筒井康隆の小説・批評に由来するが、その特徴は大きく言って二つに集約される。
1.筒井康隆自身による作品解題
2.筒井康隆の作風の幅広さ
1には『虚構船団の逆襲』や『着想の技術』などが該当する。例えば『逆襲』では批評家達の批判や誤読が反批判されているのだが、そこからいかに読み手は作者の主張を読めないかを知ると共に、筒井康隆が何を考えて虚構船団を書いたのかもよりはっきりと見えてきた。このような過程を経て、作者がどんなことを考えながらプロットを練ったり人物・風景描写を行っているのかを推測するのが当たり前だと考えるようになった(ちなみに、気に入ったゲームの設定資料などを私が必ず買うのは、そういう作者の主張などをよりはっきりと把握できるからである)。
2は筒井康隆の小説群について多少なりとも知識があればすぐにうなずくところだろう。とりあえず私のレビューに関連して重要なのは、筒井康隆が表現しようとするものに応じて文体などをガラリと変えてしまうという事実だ。主人公が三人称であるか一人称であるかという基本的なレベルに始まって、「陰悩録」の秀逸なひらがな文章、表現規制をパロった伏字だらけの文章、以前紹介した「日本地球ことば教える学部」の文章など実に幅広い(その他、「くさり」「敵」など数え上げればキリがない)。そして、ただ新しい・おもしろいということではなく、それぞれ効果と意味がしっかりと計算されているところがすばらしい(※1)。筒井康隆の様々な作品・文体に触れることで、表現しようとする内容に従って表現方法(「それをどのように表現しようとしているか」)もまた大きく変わるのだ、変えるべきだという考え方が身に付いた(※2)。プロットや文体への強烈な意識、またそれらが持つ効果の把握…筒井小説は(そのほとんどが)そういう点への自覚・こだわりにおいて他者の追随を許さない。いや、別次元に超越してしまったとさえ言えるかもしれない。以上のような、手法への明確な意識とこだわりに常に触れていたことが、私のレビューの視点に大きな影響を与えたと思われる。
※1
「高尚な」ものを好む人間は、こういったものをお気に召さない人が多いようだ。それが感覚的なものだと理解しているならいい。しかし、作品としてどうかという批評までもそれと同じレベルで論じようとするのはいかがなものか。その段階においては、文体などが表現したい内容と適合しているかどうか、といったことが重要ではないのか。そして特に問題なのは、そういった自分の違和感を理屈で正当化(解明ではない)しようとすることだ。自分に合わない、あるいは理解できないと思うのなら、「理解できない」と言っていればいいのだ(もっとも、それを生業としている場合そうもいかないのだろうが)。作品の表現したいものを考えず、表面に著されたものに対する自分の生理的不快感を、作品がよくないのだという方向に無理やり理屈でこじつけて批判するというやり方。それは私が忌み嫌うものの一つだ。それにしても、筒井康隆の作品をただのパロディとしてのみ捉え、例えばそこにある風刺の精神などが(その真価に比して)等閑視されてきたのは全く不思議なことだ。
※2
ちなみに、「あえて変えない」というのも技法の一つ。いきなりエロゲーの話に飛んで恐縮だが、例えば田中ロミオの「ユメミルクスリ」やType-moonの「月姫」では、明らかに異常な会話や反応をあえて淡々とさせることで、その違和感・異常性をより強く意識させることに成功している。私が感心したのは、前者は自殺の話で後者は琥珀のズレた反応、それぞれ1シーンずつ。例えば私たちは人の死がドラマティックに演出されることに慣れているが、それゆえ死がまるで日常の1イベントでしかないように(あるいはその事実を)描写されると、新鮮に感じられるものだ。
そういえば筒井監督作品(映画)で、『日本以外全部沈没』ってのがあったぞ(もちパロディ)w 暇があれば観てみるよろし♪
『日本以外全部沈没』はレンタル屋で見たよ。まあしばらく借りる気はおきなそうだけどw