作品・作者、そして自分との向き合い方

2007-01-06 11:36:13 | 抽象的話題
前回、作者が何を表現しようとしているか第一に考えるようになった経緯を話した。こういう記事に対して、「誤読の自由が読者にあるのではないか?」という意見が出るかもしれない。それについてとりあえず私が思うのは、努力しても誤読に「なってしまう」のは仕方ないが、始めから「誤読して何が悪い」という自分を押し付ける姿勢で本を読むのは傲慢だということだ(作品は100%の計算で成り立っているわけではないので、他者である読者が100%理解しきるのはそもそも不可能である)。


またその他、「作者の主張などを第一に考えるのは、読者の作品に対する見方を画一化してしまうのではないか」という意見が出てくるかもしれない。そこには大きな誤解がある。例えば、ある人が何かを主張したとしよう。その発言の真意がわかった段階で、それに対して皆同じ反応をするようになるだろうか?絶対にならないのである。たとえ作者の主張などを正確に理解したとしても、それに対してどんな反応をするかは千差万別なのだ(これに関してこの記事も参照のこと)。ところで今挙げたような意見は、その裏側に人間の、そして自分の感覚に対する過小評価が潜んでいるように思われる。感想としては、たとえば「おもしろい」という感想があり、あるいは「つまらない」という反応もありえる。しかし、例えば「おもしろい」という感想を抱いたとして、何が、どのように、どうして「おもしろ」かったのだろうか。それらをよく考えながら肉付けしていけば、嫌が上でも自分だけの感想にならざるをえないのだ(これについては次の記事を参照)。つまり、そのような感想と向き合う作業を行わず、意識もしていなから、見方・感想が画一化してしまうという誤った恐れを抱くことになるのである。


結局のところ、そこにあるのは怠慢なのだ。作者の主張や演出の意図を考えるのも、それどころか自分の感覚と向き合うことすら面倒だから、ただ受け入れ何となく感じたことを作品の評価としてしまう。それは作品と作者のみならず、自分自身に対しても不誠実な態度だと言えるだろう。



これに関しては感受性・読解力というのが重要な要素になってくるが、これに関する私の考え方は以下の記事で述べたとおりだ。
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