包摂の欠落

2013-12-31 18:41:25 | 生活

憲法で「法の下の平等」を謳いながら、嫡出子と非嫡出子の権利に差があるという法律(民法第900条)が今の今までまかり通ってきたのは驚くべきことである。というのは、何人も自らの出自を選ぶことはできないのであって、それを元にして権利に差異を設けるのは、たとえば「黒人には選挙権を与えない」といった差別と何ら変わりがないからだ(もしそのような類推が働かないのなら、それこそ想像力・思考力の欠如というものだろう)。

為政者たちは結婚に基づく家族形成のインセンティブとしてこのような規定に意味を見出しているのかもしれないが、それに関しても三つの点で問題・疑問がある。一つ目は憲法が政府に対する命令である(=政府がその実践を要求されている)ことへの無知・無理解、二つ目は道徳の領域に法が踏み込むのは近代国家として大いに問題があること、三つ目はそうまでして守らねばならぬ家族のあり方はそもそもすでに終わっているのであって、果たして維持する必要性・必然性がどれほどあるのか、ということだ(そもそも理想とされる家族の形態が近代以降の産物であって、超歴史的に適用可能なものでは全くない。また欧米を始めとして、多様な家族のあり方を許容するシステムが徐々に広がってきている)。

もしそれでも前述の法律を貫徹したいのならば、「法の下の平等」という憲法の規定を廃止するのが筋というものだろう。ただしその場合は、「ユダヤ人を徹底的に迫害したナチスドイツ的な発想に立ち返る愚行」「旧枢軸国が軍国主義の本性を表した」などと見られ、靖国参拝どころではない批判や不利益を被るだろうけども。

 

今述べたような一事だけでも、私たちが生きている社会システムが万全でないのは明らかである。これに関して、先日私は「聖☆おにいさん」に絡めて「キャラ化」とその問題点を指摘したが、それは日常性への埋没であり、実感信仰へと繋がるものでもある。そこからはシステム(自分が生きている社会の枠組み)の妥当性を考えたり、システムの外にはじき出される人たちへの眼差しを持とうとする姿勢は生まれにくいため、必然的に「試行錯誤」で書いたようなシステムへのしがみつき合理的適応の結果として生み出し、やがては自己破綻へと到る。

そのような状況の中では、システムの外にいる者たち(マイノリティ)は存在しないかのごとく認識の外に置かれ、認識されたとしても彼らを助けたりするのは「思いやり」、「お目こぼし」、「恩恵」だとみなされる(ましてやアフリカに生まれたというだけで短い命を散らさなければならない人たちがいる=自己責任によらない不平等の存在、といった宗教などとも深く結びつく世界の「不条理」やシステムの恣意性[=「我々」の範囲の恣意性]に対する認識など生まれようはずもない)。

ゆえにそこでは、繰り返しになるが、システム自体の妥当性であるとか、あるいは自分もまたそうなりうるというパースペクティブが生まれ、継続的に取りざたされることは稀で、システムからこぼれ落ちた人々は「自己責任」、ないしは「運が悪かった」ものとして個別化され、処理されてしまうのである(念のために言っておくと、そういう人たちや集団の現状が完全に自分以外の原因によるものであるなどと考えるのは、今さら福祉国家を復活させるのが可能だと考えるのと同じくらい愚かなことであるが)。そのような社会において、包摂の機能を果たすものが準備されているわけもなく、また共同体も空洞化し続けている以上、前にも触れたような自殺者の多さなどは実に必然的な現象であるように思える(海外の方が自己責任の意識は強いのでは?と言う人がいるかもしれないが、国によって差異はあるものの、中間集団や宗教が第二、第三の受け皿として包摂の機能を果たす。これは人間の必謬性に対する認識の有無が大きいかもしれない)。そして、これまた繰り返しになるが、そこからシステムへしがみつく志向性と排外主義が生み出されるのは当然だと言えるのではないだろうか。

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