前回、今までの共感に関する見解の問題点を指摘しつつ、キャラ的人間関係と共感について述べた。
このキャラ的人間関係というものは、本の内容なども踏まえて考えると、ドラマやアニメの影響、また「類型化した方がわかりやすい」などの理由で広まっているのだと思われる(これには、価値観の多様化も関係していると推測される)。
キャラ的人間関係は、グループ内でキャラ(=役割)を与え、また与えられる関係であるが、役割を生きること自体は最近始まったことではないし、特に会社などではありふれたことだ。とはいえ、キャラ的人間関係の場合はそれを「~キャラ」という風にカテゴライズし明確化すること、かつその役割に「場の空気」とでも言うべき強制力がある点が特異なのだろう(キャラに合わない発言をすると、あるいはキャラを放棄すると場が白ける)。
しかも、人は「キャラが立ってない」とか「キャラがかぶる」という現象を恐れると言われている。だとすれば、役割を与えられたいと思っている人が少なくないのだろう。つまり、キャラとは一方的に押し付けられるものではなく、自分自身も求めている側面があるのだと言えるだろう(無論全員ではないが)。
非常に大ざっぱにまとめると、キャラ的人間関係とはこのようなものらしい。
なお、個人的な感想を言わせてもらえば、俺はそういう関係に否定的である。なるほど仕事の場合なら、社員ー客などの立場に基づいた発言や行動を要求されるのが基本だし、それは契約上のものでもある。しかし、大ざっぱに分ければプライベートの会話でもいちいち役割を与えられ、それを演じなきゃいけない関係は哀れだとさえ思う(もっとも、キャラ的人間関係に慣らされた人というのは一人でいる時だけがプライベートなのかもしれない)。
そういう関係を生きている人たちは、そこからくる様々なストレスを抱えていると思うのだが、それでもキャラ的人間関係が成立するのは、複雑な人間と向き合いたくない、類型化されたわかりやすい存在じゃないと嫌だという思いがそれだけ強いからなのだろう。
ここで共感の話になるが、その重要性を説く人の多くは、こういうキャラ的人間関係が持つ他者への類型的・皮相的理解と役割強制という傾向を批判し、それに代わるものとして共感を取り上げているのかもしれない(この点は正直ほとんど本を読んでないのでよくわからないが)。
この推測が正しければ、その意図はよくわかるし、相手をじっくり理解しようとする姿勢は自分も重要だと思う。しかしながら、上記のように複雑なものを嫌い、類型化するのに慣れきった人たちは、果たして(手間のかかる)共感を求めるのか?という疑問を感じる。なるほどキャラ的人間関係への逃避から、一時的に共感の方へ傾くことはあるかもしれない。だが結局は、共感をも相手の類型化に利用する(つまりレッテル貼りする)だけで終わるのではないか…俺はそのように危惧している。
このキャラ的人間関係というものは、本の内容なども踏まえて考えると、ドラマやアニメの影響、また「類型化した方がわかりやすい」などの理由で広まっているのだと思われる(これには、価値観の多様化も関係していると推測される)。
キャラ的人間関係は、グループ内でキャラ(=役割)を与え、また与えられる関係であるが、役割を生きること自体は最近始まったことではないし、特に会社などではありふれたことだ。とはいえ、キャラ的人間関係の場合はそれを「~キャラ」という風にカテゴライズし明確化すること、かつその役割に「場の空気」とでも言うべき強制力がある点が特異なのだろう(キャラに合わない発言をすると、あるいはキャラを放棄すると場が白ける)。
しかも、人は「キャラが立ってない」とか「キャラがかぶる」という現象を恐れると言われている。だとすれば、役割を与えられたいと思っている人が少なくないのだろう。つまり、キャラとは一方的に押し付けられるものではなく、自分自身も求めている側面があるのだと言えるだろう(無論全員ではないが)。
非常に大ざっぱにまとめると、キャラ的人間関係とはこのようなものらしい。
なお、個人的な感想を言わせてもらえば、俺はそういう関係に否定的である。なるほど仕事の場合なら、社員ー客などの立場に基づいた発言や行動を要求されるのが基本だし、それは契約上のものでもある。しかし、大ざっぱに分ければプライベートの会話でもいちいち役割を与えられ、それを演じなきゃいけない関係は哀れだとさえ思う(もっとも、キャラ的人間関係に慣らされた人というのは一人でいる時だけがプライベートなのかもしれない)。
そういう関係を生きている人たちは、そこからくる様々なストレスを抱えていると思うのだが、それでもキャラ的人間関係が成立するのは、複雑な人間と向き合いたくない、類型化されたわかりやすい存在じゃないと嫌だという思いがそれだけ強いからなのだろう。
ここで共感の話になるが、その重要性を説く人の多くは、こういうキャラ的人間関係が持つ他者への類型的・皮相的理解と役割強制という傾向を批判し、それに代わるものとして共感を取り上げているのかもしれない(この点は正直ほとんど本を読んでないのでよくわからないが)。
この推測が正しければ、その意図はよくわかるし、相手をじっくり理解しようとする姿勢は自分も重要だと思う。しかしながら、上記のように複雑なものを嫌い、類型化するのに慣れきった人たちは、果たして(手間のかかる)共感を求めるのか?という疑問を感じる。なるほどキャラ的人間関係への逃避から、一時的に共感の方へ傾くことはあるかもしれない。だが結局は、共感をも相手の類型化に利用する(つまりレッテル貼りする)だけで終わるのではないか…俺はそのように危惧している。
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