さて、前回の「ひぐらしとオウム真理教」までで皆殺し編の問題点については大方述べ終わりました。今回は、その批判を補強するいくつかの要素を掲載しておこうと思います。
国家(レベルの集団)が黒幕でそれに神の力を利用して(団結し)対抗する、という構図がオウム的であることは前回述べた通りです。このことについて、作者は自覚をしているのでしょうか?なるほど「宗教についてはよくわからない」という梨花の発言をその証拠と捉えることもできますが、少なくとも『ひぐらしのなかせ方』を見る限りでは、単に「強大な敵に勝つための仕掛け」という程度の意識しかなさそうです。
もっとも、羽入は神というよりむしろプレイヤーのアナロジーとして描かれているのだからその批判は不適切だ、との反論が出てくるかもしれません。要するに、描かれているのは「神の力」ではなく「プレイヤーの願い」による「奇跡」なのだ、というわけです。なるほど確かに皆殺し編ラストで「you」が流れていたことから作者の意図はわかりますが、それが成功しているとは正直思えない。羽入の発言がウザいという発言が少なからず見られるのを考慮に入れると、彼女を自分の分身のように見立てていたプレイヤーが果たしてどれだけいたのか大いに疑問があるからです。そういった反応もあって祭囃し編では(プレイヤー≒神という側面は残しつつ)羽入が明確な他者として描かれているのでしょう。
であるならば、演出の失敗もあって結局羽入は最初から最後まで他者としか認識されず、ゆえに羽入の助言などによる団結は、やはり「神の力」によるもの以外の何物でもないんですね。そうすると、私の提示したひぐらしの「奇跡」=オウム真理教のアナロジーが生きてくるわけです。私達の多くは羽入になり損ねているわけですから、さしずめ「グルになれなかった凡人ども」てところでしょうかねぇ、あははは。
まあ嫌味はさておき、このような現象は個人的な救済の話であるkanonなどの構図を、集団の話に接木したことから生じたものです。団結そのものはともかく、それが夢や神の声によって成立しているところは宗教そのものであり、またそれによる団結が国家レベルの陰謀に向かうところは非常にオウム的です。ところで、私が一番問題だと思うのは、「奇跡」とか大団円といった聞こえのいい言葉によってこのような側面が隠蔽されていることであり、かつそういう事情を考えずに「奇跡」や大団円を求めるプレイヤーが数多く存在している、という事実です。
展開の必然性を無視していることは言うまでもありませんが、自分が求めている救いがどのように成立しているのかを考えていないあたりに危うさを感じずにはいられません。まあ感動を動物的に欲するというのはそういうことなのかもしれませんが…
最後に。「ひぐらし~カケラ遊び~」を購入したのは、このような話の構造が、憑落し編や澪尽し編をプレイしたらどう変わるだろうか、という部分もあったのです。しかしそこで見られたのは、結局のところ憑落し編の団結(→「奇跡」)を納得させるための演出と、今までのテーマを台無しにする可能性のある澪尽し編のエンディングでしかありませんでした(たとえ作者が違っても、原作者が監修している以上、基本構造を逸脱してはいないでしょう)。結局、
数多くの問題が隠蔽された大団円に向けてプレイヤーを誘導していく
というのがひぐらしの基本構造であり、それ以上でもそれ以下でもない…というのが見えてきた。以前「ひぐらしの底が見えた」と書いたのはそういう理由です。多分これから出てくるもの(ひぐらし絆etc...)は連続怪死事件を他の視点で見るとか局地的な事件をクローズアップするといった程度にしかならないでしょう。知りもしないうちから無価値と断じる愚は犯したくありませんが、結局それらはバリアントに過ぎず、基本構造が変わらないというのは動かしがたい事実です。
ゆえに、新しいひぐらしを求める気にはならないというのが正直なところです。まあそういうわけで、澪尽し編の覚書とエンディングの問題点について書き、ひぐらし関連の記事を終えることにしたいと思います。
国家(レベルの集団)が黒幕でそれに神の力を利用して(団結し)対抗する、という構図がオウム的であることは前回述べた通りです。このことについて、作者は自覚をしているのでしょうか?なるほど「宗教についてはよくわからない」という梨花の発言をその証拠と捉えることもできますが、少なくとも『ひぐらしのなかせ方』を見る限りでは、単に「強大な敵に勝つための仕掛け」という程度の意識しかなさそうです。
もっとも、羽入は神というよりむしろプレイヤーのアナロジーとして描かれているのだからその批判は不適切だ、との反論が出てくるかもしれません。要するに、描かれているのは「神の力」ではなく「プレイヤーの願い」による「奇跡」なのだ、というわけです。なるほど確かに皆殺し編ラストで「you」が流れていたことから作者の意図はわかりますが、それが成功しているとは正直思えない。羽入の発言がウザいという発言が少なからず見られるのを考慮に入れると、彼女を自分の分身のように見立てていたプレイヤーが果たしてどれだけいたのか大いに疑問があるからです。そういった反応もあって祭囃し編では(プレイヤー≒神という側面は残しつつ)羽入が明確な他者として描かれているのでしょう。
であるならば、演出の失敗もあって結局羽入は最初から最後まで他者としか認識されず、ゆえに羽入の助言などによる団結は、やはり「神の力」によるもの以外の何物でもないんですね。そうすると、私の提示したひぐらしの「奇跡」=オウム真理教のアナロジーが生きてくるわけです。私達の多くは羽入になり損ねているわけですから、さしずめ「グルになれなかった凡人ども」てところでしょうかねぇ、あははは。
まあ嫌味はさておき、このような現象は個人的な救済の話であるkanonなどの構図を、集団の話に接木したことから生じたものです。団結そのものはともかく、それが夢や神の声によって成立しているところは宗教そのものであり、またそれによる団結が国家レベルの陰謀に向かうところは非常にオウム的です。ところで、私が一番問題だと思うのは、「奇跡」とか大団円といった聞こえのいい言葉によってこのような側面が隠蔽されていることであり、かつそういう事情を考えずに「奇跡」や大団円を求めるプレイヤーが数多く存在している、という事実です。
展開の必然性を無視していることは言うまでもありませんが、自分が求めている救いがどのように成立しているのかを考えていないあたりに危うさを感じずにはいられません。まあ感動を動物的に欲するというのはそういうことなのかもしれませんが…
最後に。「ひぐらし~カケラ遊び~」を購入したのは、このような話の構造が、憑落し編や澪尽し編をプレイしたらどう変わるだろうか、という部分もあったのです。しかしそこで見られたのは、結局のところ憑落し編の団結(→「奇跡」)を納得させるための演出と、今までのテーマを台無しにする可能性のある澪尽し編のエンディングでしかありませんでした(たとえ作者が違っても、原作者が監修している以上、基本構造を逸脱してはいないでしょう)。結局、
数多くの問題が隠蔽された大団円に向けてプレイヤーを誘導していく
というのがひぐらしの基本構造であり、それ以上でもそれ以下でもない…というのが見えてきた。以前「ひぐらしの底が見えた」と書いたのはそういう理由です。多分これから出てくるもの(ひぐらし絆etc...)は連続怪死事件を他の視点で見るとか局地的な事件をクローズアップするといった程度にしかならないでしょう。知りもしないうちから無価値と断じる愚は犯したくありませんが、結局それらはバリアントに過ぎず、基本構造が変わらないというのは動かしがたい事実です。
ゆえに、新しいひぐらしを求める気にはならないというのが正直なところです。まあそういうわけで、澪尽し編の覚書とエンディングの問題点について書き、ひぐらし関連の記事を終えることにしたいと思います。
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