ひぐらし:神の解体と創造 補遺

2008-07-10 23:38:16 | ひぐらし
前回の「大団円で隠蔽されたもの」の内容に納得いかない人もいるでしょう。そこで最後に、「神の解体から創造へ」と「虚ろになった方向性」を引き継ぐ形でなぜ神がそれほど問題になるのかを書いておこうと思います。なお、本文は簡単なまとめを述べるだけにとどめます。詳細は最後に載せる覚書を参照してください。


少なくとも目明し編の頃まで、「オカルトVS人為」という二項対立の図式が存在しました。多くの人は人為に流れたのですが、「人為100%で失望した人に」でも書いたようにオカルトの混入は論理的に証明可能でしたし、また罪滅し編が出て間もなくの頃の公式掲示板ではオカルトの混入を認めるような言説が増え始めていた気がします(すぐに見なくなったのでおぼろげな印象ですが)。しかし結局、オカルトどころか神さえも存在しているという結論だったことが、プレイヤーの反発の一因になったのでしょう。


しかしこれだけでなく、二項対立というレトリックの効果が潜在的にあったのではないか、と私は考えています。単純な話ですが、主張だけでなく一般論を二項対立(対比)として持ち出すのは、もう片方を強調するためです。ですから、「人為VSオカルト」で後者が勝利するというのは、単に真相がどちらであったかというだけでなく、オカルトの存在を強調するという効果を生み出すわけです。しかも、そのオカルトが最終的に神にまで行き着くわけですから、極端な話をすれば神の実在が強調されている、という見方さえ生まれうるんですね。誤解のないように言っておきますが、作者は多分そういう主張をする意図はないでしょうし、またプレイヤーのほとんどはそういう視点を意識してはいないと思います。ただ、人為派の失望には、以上のような二項対立というレトリックの効果(=神の強調)が潜在的に含まれているのではないか、ということです。しかしながら、そういった潜在的なレトリックの効果が、「奇跡」とオウム的なものの橋渡しをする可能性を指摘しつつ、この記事を終わることにします。



(以下覚書)
二項対立の有効性…対比、強調。
もし最初から神がいるなら、それはモノトーンであり、設定として受け入れられる(その場合神の存在理由を突っ込んでもあまり意味が無いかもしれない。DBのかめはめ波にいくら文句をつけても作品的には無駄なように)。しかしながら、人為かVSオカルトという二項対立を提示した上でオカルト、しかも神を肯定したわけだから、神の創造が強調されて前面に出てくるのは当然である。だから「人為100%」の推理者は面食らう(混在ではなく否定派ゆえ)。さらに妙な夢(?)や羽入の語り掛けが澪尽しで出てくるにつけ、ますますわからんくなる。


これはもはや混入のレベルじゃない。しかも団結による奇跡がテーマ。それを可能にする羽入…呼び掛けに限らず、ループがなければ夢も存在ない。つまり羽入は奇跡に最も重要な人物。というふうに考えると、羽入を登場させた意図ってなに?と疑問に思わざるをえない(背後の存在が気のせいではなかった、じゃ済まされないレベル)。ただのプレイヤーの分身として処理できんの(Airとり)?羽入がいるかいないか真剣に考えた人とそうでない人ではひぐらしが全然違うものになる。
※ DB=意味有無突っ込み、否定派…便宜上枠組み超え、オウム事件とか


神=プレイヤーの位相、神=一般的用語としての神の位相をごっちゃにするな。前者=プレイヤーが観客ではなく奇跡を願わなければ奇跡は起きない。後者=神が存在しなければ奇跡は起こりえない。皆編のyouとか「宗教のことはわからない」からすると前者が主に言いたいこと。しかし後者で奇跡の欺瞞が逆説的に証明されているのも確か。目明し編から推理していた人間にとって、梨果ならまだしも、羽入は分身ではありえない(皆・祭から言ってフレデリカと会話できる何者かと位置付けられる)。強引な接木の感じが否めない…大団円という縛りが質を低下させている。

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