さて、前の「虚ろになった方向性」では、神の解体と創造に関する描写が甘いためプレイヤーの批判を招いているのだ、という話をしました。ここでは、症候群的真相に関して述べていきます。
(其の1)
まず先に確認しておきたいのですが、「雛身沢症候群」というものについてひぐらしは肯定的な描写・評価をしてはいません。いや、これは控えめな表現で、診療所の研究を通してそれを撲滅しようとする話や罪滅し編のレナの扱いなどを見る限り、否定的な評価を下していると言っていいでしょう。そういう視点で見直すと、鬼隠し編から罪滅し編までの流れは実によくわかります。要するに、
疑心暗鬼が惨劇を生み出してきたのだから、それを乗り越えることが大事だ
ということですよね。しかし、その問題意識で皆殺し編を見ると、何をやりたいのかよくわかりません。というのも、皆殺し編において鷹野の陰謀に立ち向かったきっかけは、結局梨花が仲間(この表現に語弊があれば庇護者)だと思っていた鷹野を「疑った」ことに他ならないからです。しかも、それについては祭囃し編、ひぐらし礼でも何の説明もない。
確かに、罪滅し編ではあのエンディングの後で大災害が起こるわけですから、仲間を疑わなかったらオールオッケーなんていう単純な話ではないのはわかります。しかし、最終的には疑わなければならないのだとしたら、結局作者は疑いと信頼について何が言いたいのかはっきりしないまま終わってるんですね。要するに、皆殺し編によって方向性が虚ろになっているわけです。
(其の2)
あるいは、テレビ版第一期(~罪滅し編)の次回予告にあった梨花の「あなたは信じられますか?」という問いかけが、第二期(皆殺し編~)では消えていることも合わせて考えると、「隣人は疑うべきではないけれども、国家は疑っていくべきだ」と言いたいのでしょうか(深読みだと思う方がいるかもしれませんが、ひぐらしが様々な点で二次大戦などを意識していることからすれば、むしろ自然な解釈でしょう)?
もしこの解釈が正しいのならば、「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」の内容がそのまま反論になるので詳しくは書きません。ただ一言だけ述べておけば、国家の無謬性を誰も信じないのは当然だけれども、事件や何かしらの不満を社会・国家へと安易に(※)帰着させてしまう行為はやはり病的だ、ということです(それは竜宮レナを見ればわかりますよね)。
(其の三)
しかも、そういった病的な疑いによって行き着いた相手に勝つのは団結によるのですが、それは神たる羽入さまのお力による夢(他の世界の記憶?)とお声がけによって可能になったのです(このあたりは澪尽し編をプレイしてない方はピンとこないかもしれません)。意図はしていないにしても、「奇跡」なるものが結局宗教であることを明示した点でこの描写は非常に興味深いのですが、それにしても、病的な疑いによって国家陰謀に行き着き、それに打ち勝つのは神の力による団結…という構図はオウム真理教のテロを彷彿とさせます(まあ宗教というのは社会規範の従属物ではないので、基本的に社会との軋轢が生じるものなのですが…)。
さらに、様々なところでオウム真理教が「オタク」の集団であるという指摘がなされていることまで考えあわせると、「オタク」的ネタトークで盛り上がる圭一たち、そしてそれに同調するプレイヤーの姿は、あまりにオウム的過ぎてうそ寒くなるものがあります。このような構図を読み取るとき、梨花の「宗教のことはよくわからない」という発言がむしろ作者の責任回避にしか聞こえないのは私だけでしょうか?
(最後に)
以上見てきたように、皆殺し編によって、疑い(症候群)から脱する話だという方向性は虚ろになってしまいました。しかも、ここで新たな何かが構築されるならよかったのですが、出てきたのは国家という巨大なものへの病的・メガロマニア的な疑いでしかありませんでした(必然性をある程度知っている梨花にとってはまだしも、プレイヤーにとっては完全にそうだと言えるでしょう)。それだけでなく、国家という相手に勝つために神の力(さすがに信仰ではない)によるオタク集団の団結が必要…という具合になってくると、もはや話はオウム真理教そのもの。
実はひぐらしの大きな価値の一つは、key的な「奇跡」の希求に団結という要素を加えたらどんなものが出来上がるのかを(意図せずして)示したことなのかもしれません。
※
梨花の話を周りの人間があっさり信じたりと、作者はどうも国家機関を疑うのがどういうことなのか、という点について無頓着な印象があるのでこう書きました。もっとも、公安に所属する人物が主人公にはなっているわけですから「国家=悪者」というような硬直した思考をしていないのは明白ですが。
(其の1)
まず先に確認しておきたいのですが、「雛身沢症候群」というものについてひぐらしは肯定的な描写・評価をしてはいません。いや、これは控えめな表現で、診療所の研究を通してそれを撲滅しようとする話や罪滅し編のレナの扱いなどを見る限り、否定的な評価を下していると言っていいでしょう。そういう視点で見直すと、鬼隠し編から罪滅し編までの流れは実によくわかります。要するに、
疑心暗鬼が惨劇を生み出してきたのだから、それを乗り越えることが大事だ
ということですよね。しかし、その問題意識で皆殺し編を見ると、何をやりたいのかよくわかりません。というのも、皆殺し編において鷹野の陰謀に立ち向かったきっかけは、結局梨花が仲間(この表現に語弊があれば庇護者)だと思っていた鷹野を「疑った」ことに他ならないからです。しかも、それについては祭囃し編、ひぐらし礼でも何の説明もない。
確かに、罪滅し編ではあのエンディングの後で大災害が起こるわけですから、仲間を疑わなかったらオールオッケーなんていう単純な話ではないのはわかります。しかし、最終的には疑わなければならないのだとしたら、結局作者は疑いと信頼について何が言いたいのかはっきりしないまま終わってるんですね。要するに、皆殺し編によって方向性が虚ろになっているわけです。
(其の2)
あるいは、テレビ版第一期(~罪滅し編)の次回予告にあった梨花の「あなたは信じられますか?」という問いかけが、第二期(皆殺し編~)では消えていることも合わせて考えると、「隣人は疑うべきではないけれども、国家は疑っていくべきだ」と言いたいのでしょうか(深読みだと思う方がいるかもしれませんが、ひぐらしが様々な点で二次大戦などを意識していることからすれば、むしろ自然な解釈でしょう)?
もしこの解釈が正しいのならば、「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」の内容がそのまま反論になるので詳しくは書きません。ただ一言だけ述べておけば、国家の無謬性を誰も信じないのは当然だけれども、事件や何かしらの不満を社会・国家へと安易に(※)帰着させてしまう行為はやはり病的だ、ということです(それは竜宮レナを見ればわかりますよね)。
(其の三)
しかも、そういった病的な疑いによって行き着いた相手に勝つのは団結によるのですが、それは神たる羽入さまのお力による夢(他の世界の記憶?)とお声がけによって可能になったのです(このあたりは澪尽し編をプレイしてない方はピンとこないかもしれません)。意図はしていないにしても、「奇跡」なるものが結局宗教であることを明示した点でこの描写は非常に興味深いのですが、それにしても、病的な疑いによって国家陰謀に行き着き、それに打ち勝つのは神の力による団結…という構図はオウム真理教のテロを彷彿とさせます(まあ宗教というのは社会規範の従属物ではないので、基本的に社会との軋轢が生じるものなのですが…)。
さらに、様々なところでオウム真理教が「オタク」の集団であるという指摘がなされていることまで考えあわせると、「オタク」的ネタトークで盛り上がる圭一たち、そしてそれに同調するプレイヤーの姿は、あまりにオウム的過ぎてうそ寒くなるものがあります。このような構図を読み取るとき、梨花の「宗教のことはよくわからない」という発言がむしろ作者の責任回避にしか聞こえないのは私だけでしょうか?
(最後に)
以上見てきたように、皆殺し編によって、疑い(症候群)から脱する話だという方向性は虚ろになってしまいました。しかも、ここで新たな何かが構築されるならよかったのですが、出てきたのは国家という巨大なものへの病的・メガロマニア的な疑いでしかありませんでした(必然性をある程度知っている梨花にとってはまだしも、プレイヤーにとっては完全にそうだと言えるでしょう)。それだけでなく、国家という相手に勝つために神の力(さすがに信仰ではない)によるオタク集団の団結が必要…という具合になってくると、もはや話はオウム真理教そのもの。
実はひぐらしの大きな価値の一つは、key的な「奇跡」の希求に団結という要素を加えたらどんなものが出来上がるのかを(意図せずして)示したことなのかもしれません。
※
梨花の話を周りの人間があっさり信じたりと、作者はどうも国家機関を疑うのがどういうことなのか、という点について無頓着な印象があるのでこう書きました。もっとも、公安に所属する人物が主人公にはなっているわけですから「国家=悪者」というような硬直した思考をしていないのは明白ですが。
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