堀江貴文✕成田悠輔対談:偶然性、アイロニー、連帯

2022-02-23 13:00:00 | 生活
 
 
 
 
 

堀江貴文と成田悠輔の対談を見る。すでにマイノリティの若年層の選挙率が上がったところで影響は大したことはなく、加えて彼らも「保守」化しているので、なおさら国全体のレベルで大きな変化は望めない、というのはまさにその通りで、それゆえコミュニティレベルでの変化を目指すのも戦略的に正しい。

 


要は、国全体が何となく良い方向にいくのをうっすら期待(コンサマトリー的感性)してても時間の無駄で、個人か小さな共同体レベルで生き残りを目指すか、海外に行くスキルを身につけてそちらで生活する準備をするのがよい、という結論になる(いつでも日本から出れるようにした上で、日本で生きる術があるからそのまま生活している、というのはあり)。

 


まあ日本の場合は治安良好という大きなメリットはあるが、それは経済衰退と共同体解体で「無敵の人」が増えていく中、どこまで維持できんのか?て、話である(まあさすがに、1930年代の昭和恐慌→農村恐慌→軍事クーデターのようなレベルまではいかないとしても、だ)。

 


とはいえ、動画内容に関しては反論もある。たとえば、堀江は機械で代替できるものは代替してしまい、それで労働の場に入れなくなった人々は国家が養うようにすればよい、という趣旨の発言をしている。ブルシットジョブやAIの進化を考慮すればこれは至極当然の発想だが、問題はそれを国民という名の集団が納得するかだ。

 


養うのが可能であることと、養おうというマインドセットの元にそのシステムを構築する動機づけを持ち実行する、というのは別の話である。一体どうして、今の日本社会を見ていて、日本国民(の大半)に後者のような動きが期待できると思うのだろうか?まして、堀江自身も正しく指摘するように国民国家が限界を迎えつつあるのなら、そのような人間を「同胞」としてなおも包摂の対象にする必然性は皆無であろう(いわゆるリベラル・ナショナリズムの機能不全)。

 


ここまで踏まえた上で成田の主張する安楽死制度を考える必要があるだろう。すなわち、老人や生産の歯車から除外された人間には、自死を勧めるということである(正確に言えば、成田は高齢者についての話でのみ安楽死を取り上げている)。

 
 
 
とはいえ、このような変化には相当な時間がかかるだろう。おそらく数十年単位は「働かざる者食うべからず」というマインドの元に、安い労働力を欲する企業のニーズと共犯関係になって、人はドロップアウトした人間を包摂するモチベーションを持たず、老人は死ぬまで働かされ、中小企業を中心に日本の構造改革は遅々として進まないものと思われる(「労働力が足りないなら老人を死ぬまで働かせればいい、という社会」を書き、かつそのコメント返信で「正しい未来予測は可変性を担保しない」という題名にしたのはそういう意図だ)。ちなみに、これが前にも書いた「カイジの鉄骨渡り」的状況だ。というのも、少し踏み外したら、あっという間に奈落へ転落する構造だからである。
 
 
 
 
 
 

日本の高度経済成長を「偶然」と喝破しているのはすごい。


これは思考停止や丸投げに見えるかもしれないので、自分なりに補助線を引いてみたい。たとえば、「近代において欧米が世界を席巻したのは、そも西洋文明が東洋より優れていたからだ」という言説を見たら、あなたは納得するだろうか?おそらく、中世におけるヨーロッパの後進性とイスラームの先進的技術、あるいは以後のモンゴル帝国、オスマン帝国、清帝国の強盛を取り上げ、それを無視した前述のような発言を、傲慢で偏狭な西洋中心主義だと非難するのではないだろか?そして欧米の躍進については、プロテスタンティズムや科学革命といった要素が、東洋の停滞と反比例する形でその勢力拡大の基礎となったなどと説明・反論するだろう(なお、中世ヨーロッパでは宗教勢力の強盛により科学の研究・発展が強く押さえつけられていた点に注意を喚起したい)。

 


それを踏まえて堀江の「偶然」発言に戻ると、要するにここで堀江が言っているのは、国内外の環境要因を冷静に見ろ、という話だ。彼が言ったことに補足しながら述べると、


①冷戦構造のためにアメリカが復興を積極的に支援(NSA協定による神武景気などを想起)


②軍需産業は強く抑えられていたことで、資金や技術を経済分野に集中することができた(その典型が車)。


③戦争がないし出生率がまだ高かった日本はベビーブームで人口が激増し、これが労働力・購買力として機能した(これはフォード型の集約的労働には重要な要素。ただ、後期近代のポストフォード型の経済においては必ずしもそうではない)。いわゆる人口ボーナス。


④朝鮮戦争やベトナム戦争の特需により、戦場にはならない一方、経済的恩恵を受け続けることができた。これは一次大戦時の日本、アメリカの発展、および戦場になったヨーロッパの没落との対比を想起すればよい。戦場になった韓国はボロボロで復興に長い時間を要したし、ベトナム戦争に首を突っ込んだアメリカは赤字で死亡(→ドル・ショック)したのに対し、日本はいざなぎ景気でさらに成長し、アメリカの経済的後退と入れ替わるように、アジアを経済的に主導し、世界の経済的トップに食い込むまでに到った。


といった要素が挙げられる。こういった諸々の環境要因を総合して、「偶然」という言葉を用いたのだろう。たとえば、③の人口ボーナスも、時の経済がすでにポストフォード型だったら、そのプラス効果はあそこまで劇的にはならなかっただろう、という具合に(裏を返せば、今進行している人口オーナスも、それは経済規模の縮小としては避けがたいが、労働環境や仕組みの変化という点ではプラスになりえるわけである。まあ見ている限り、安く使える外国人や老人で必死に現状維持しようとしてるだけで、パラダイムシフトの意識は極めて薄い・・・という前述の話につながってくるわけだが)。


こういう要素を冷静に認識しているのは、非常に素晴らしいことだ。俺が日本ダイスキーな発言をする連中をしばしば信用ならんと思うのは、今出たような現象を、自分たちの努力の成果「のみ」に還元し、美化しようとするからだ。そしてそれは、先の戦争で「俺たちは必死に戦ったんだ!」とただ美化するのと同じ精神構造である(ちなみにそういう傾向を、戦後の経済ナショナリズムが一部正当化する役割を果たしてしまった。つまり、「負けたが技術はとにかく凄かった!」といった礼賛につながり、それが先の大戦の冷静な分析を妨げ、構造的問題を軽視する要因の一つになったのは残念である)。

 

今述べたことは、より抽象的に言えばサンデルの著書「実力も運のうち」(実力至上主義の陥)に繋がるし、それは引いては個人主義(というか孤人主義)を超えてコミュニティや社会設計を主体的に考える姿勢を涵養することにも繋がるのだが、紙幅の都合上それは別の機会に譲りたい。


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