「教養」を身に着けていてもその人間が品行方正とは限らない、という事例はしばしば見られる。それは「知行合一」とか「知徳合一」とかわざわざ言われなければならない=実態はしばしばそうではないことからもわかるし、もっと言えば、システムや構造を理解しているからこそ、それが擬制にすぎないことや、コモンセンスの欺瞞的な側面も把握しており、ゆえにそれに従う必要性を感じない、という場合もあるだろう。
「教養」に関してもう一つ気になるのは、それを重視するのであれば、涵養するための社会システムや環境整備にも目を向けているか?ということだ(日本の帝國大学とボローニャ大学の比較記事でも触れたが、「教養」なるものの重要性が高いのであれば、ネットで歴史史料を無料で閲覧したり学術論文をネット公開するようなコモンズについても真剣に議論することが重要であろう)。もちろん、「環境を整える=誰もが同じようなものに価値を見出し同じ方向に向かうはず」といった啓蒙主義などにありがちな発想は論外としても、確率論を考慮して機会の平等(など)に意を用いるのは当然のことである(よく引き合いに出す事例だが、ペニシリン[環境整備]がなくても結核を生き延びることはあるが、それはペニシリンを用いた場合よりは明らかに低い確率となる)。
例えば自分の例で言うと、大学に入ってからの勉強の話は前に書いたが、当然それまでには色々な可能性があった。それは単に勉強をどれだけする・しないなどという自助努力のレベルだけでなく、その前提には父親がその時期(国内工場の飽和という事情もあり)駐在になって危険手当てなどで収入が増えたため(奨学金ももらいながら)東京の私立に行けたということを含むが、仮にこれがレイオフだったらどうなっただろう?とも思う。
これは単なる仮想の話ではない。バブル崩壊後、既存の正社員を守るために新規採用を絞り、それが就職氷河期を到来したはよく知られた通りである(もちろん業界とかによっても差異があるので十把ひとからげで述べるのは不適切だが)。その施策について近視眼的だとよく批判されるし私も同じ評価だが、一方それが実行されて「我が事」になった場合、東京の私立進学という道はもちろん、大学進学もどうなったかわからないという意味で、自分の人生は大きく変わっていただろう。
これは現在の自分の「偶然性」に関する話だが、なるほど今の自分に自己の意志が全く介在していないという評価はさすがに極端にしても、しばしば見られる短絡的な自己責任論はこういった環境要因を甘く見すぎであるという点で実態から乖離し、またそれが問題の放置につながるという意味で全く公共的な思考態度とは言えないだろう、と述べつつこの稿を終えたい(これは極限状況に関する記事ともリンクする)。
【補足】
くり返しになるが、「教養」に関する語り(騙り)もまた、社会システムという思考の枠組みをしばしば欠いているのではないか?と強い疑念を抱いている(「資源はない国だから人を育てねば」と言う割に、そのための分析や環境整備には無頓着というか無知なのが驚き呆れるところだ。ちなみにこの話は「『身の丈』から抜けられない教育格差を放置してはいけない」や「『共有できていない』という事実を共有できていない、これを分断という」などの記事につながる)。
加えて、「教養」のカテゴリーがしばしば恣意的で、なぜAが「教養」でBがそうでないのかは全く自明ではないため、「教養」の重要性を喧伝する行為は「文化人のポジショントーク」に過ぎないという疑念が拭えない。私が「ファスト教養」の問題点を様々分析・指摘してきたにもかかわらず、「教養」なるものの重要性を喧伝はせず、何だったらむしろ冷淡ですらある理由はそこにある。あくまで「私にとっての教養観」という個人的なレベルの説明はするが、それを一般化することについては非常に禁欲的なのである。
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