神よ 変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい・・・つまり何を好きになってもいいし、何を目指してもいい。しかしそのことは、絶対に決定的承認とはなりえない。なぜなら、それを他者に理解はさせられても納得させることはできないし、また当のあなたは換えのきくワンノブゼムにすぎないからだ。選択の幅が広がり、またそれが可視化されている状態においては、このような交換可能性の感覚を免れることはできない。それはまた、必然的に生の寄る辺のなさと実りのなさから生じる不安・不全感を惹起せざるをえないのである。
では、それにどう対抗するか?わかりやすい原因は、グローバル化に伴う情報化と価値観の多様化である。とすれば、アメリカのユタ州のように閉鎖的なコミュニティを作る、というのが一つの選択肢となるだろう(映画「ファイト・クラブ」の不全感とセミナー通い、そして共同体の設立などが想起される)。あるいは大々的にやるなら、国家レベルでの情報統制という方策もあり、実際中国や北朝鮮というのはそうしているわけだ(ところでこのような場合、管理者・導き手の正しさはどのようにして担保されるのだろうか?)。
このように考えてくると、ファシズムがなぜ・どのように生まれるのかもわかる。そこには、多様性→アノミー(=無秩序)→暴走という構造的必然があるのだ(「THE WAVE」では、最初は試しにやってみる=ネタ的なものにすぎなかったグループの統一感・連帯感のなかに生徒たちが飲み込まれていく姿が描かれている。また、その流れが集団ではなく個になると「太陽を盗んだ男」になる)。それを踏まえて、対象法を考えねばならない。なるほど、フリードリヒおじさん的に「理由付けがないと不安でしょうがないヘタレどもめ!」とブチ切れてみるのもよかろうwしかし、バンヤンが『天路歴程』で描き出したような、救われる明確な保証も手がかりもない中で救われんとして狂人的振る舞いに走る人間に対し、「多様性を認めよ、未規定性の中に身をさらせ」と言ってみたところで効果はないのである(たとえて言うならそれは、寒さに震え幾重にも衣服を着込もうとする人間に対し、ただ「こんな寒さは大したことはない」と言い放つのに似ている。もっとも、その環境を根本的に変えていく手段が教育であるわけだが)。
ただ、そのような不安とアノミーが一種の必然的な「病」だとすれば、それに到る構造を知らなければ治療法も知りえまい(「東日本大震災の流言・デマ」、「市場分析の欠落と誤読」)。少なくとも、今日への不全感・違和感から「昔に還れ」などと叫ぶのは、ただ慣れ親しみ・自明性にしがみついた無意味な発言であると言えるだろう。ちなみに私は「成ル談義」において、「信教の自由」という近代の根本的な要素の一つが、凄惨な宗教戦争の末の断念を経た、一種の社会契約として成立したことを書いたし、また「願望、交換可能、未規定性」では「基本的人権」なるものが擬制=社会契約にすぎない(実在しない)という話もした(最近日本の無宗教に関連してキリスト教の話を書いているが、「人権宣言」が出てきたヨーロッパは、大航海時代に「新大陸」の先住民たちを異教徒=間として大量に虐殺して回ったことなども想起したい)。しかし、これらのあまりにも基本的な前提さえ、果たしてどれだけ共有されているのか。かつて死刑制度の是非に関する公開討論で、呉智英が(実定法の話を専門家ではない自分たちがこの場でしても無意味なので)思想的な是非を考えるという観点で「人権イデオロギー」なる表現を使っていたこと、しかしそれに対して誰も正面切って議論できていなかったことが思い出される。
私がしばしば「共感」の重要性を喧伝するのが危険だと書くのは、以上のような状況を踏まえてのものだ。つまり、今日の社会の構造と必然性、あるいは近代もまた数多くの擬制と断念によって成立したものにすぎない、といった前提がない状況で自然な「共感」など言おうものなら、「人間はわかり合えるはずだ」というムラ的な、あるいは前近代的な連帯感の希求を正当化し、結果的にノイズ排除を強めるだけにしかならないと考えられるのである(これに関しては、「スポーツマンシップ」に関する3段階の見方、そして「沙耶の唄」という作品に対する受け取り方の違いとして説明したことがある)。絶対的他者に対する断念と想像力が必要だという感覚のない・薄い環境では同情はありえても「共感」はありえないので、「思いやりが大事」くらいに言っておいた方が無難であろう。
ではどうすればいいのか?「救い」とか小難しいことを考えずにゆるく生きればいい、というのは一つ考えられる態度だろう。ただし、それが社会的構造や擬制に対する無知を是認する姿勢であれば、到底首肯できない。グローバル化・情報化社会において価値観の多様化が不可避であることはすでに述べた。しかし、先のような価値観の多様化に対する不安とバックラッシュ、あるいは社会基盤そのものを脅かすテロリズムといったものが絡み合い、自発的かつ徹底的な監視社会が成立する可能性もありうるのだ。いかにして今日的状況が成立しているかの自覚がなければ、その危険性に気づかずにただ「自由からの逃走」に飲み込まれるだけだろう。
もちろん日本社会の中だけに問題は収まらない。昨日の黄砂や米軍基地問題、領土問題etcと他者との様々な問題、関係性があるのはすぐに思いつくだろうが、中でもエネルギー資源や食料資源の問題は深刻である。というのも、それらは外交的戦略やナショナリズムの問題ではない。人はより豊かな生活を求めて暮らしている人が大半なわけだが、その結果資源が底を尽きそうになってきたらそれをどう分配するのが良いのか?いやそもそも分配などしようとするのか?「地球号」などと牧歌的なことをのたまっている連中もいるが、その中における「平等」とは何か?今の生活をどこまでデチューンする覚悟があるのか?といった生活に根ざした問題を突きつけるからだ。これに関しては、『もやしもん』という作品に描かれている以下のエピソードが興味深い。というのは、農家が無農薬栽培をやろうという話になった時に、購入者たちが実際除草作業をやってみたところ参加者が「こんな辛いなら農薬で除草すればいいのに」と言い農家の心が折れたのだとか。またこれは別の話だが、昔は農薬を使ってなかったのでよく寄生虫がついて昔のトイレは・・・という状況だったらしい(まあここは調理法とか色々工夫のしようはあるだろうが)。いい面しか見ない牧歌的な発想とその帰結の例として、参考になるだろう。
以上のような理由から、社会構造を理解した上での意図的なゆるさ、すなわちconscious loosenessが必要という結論になるが、それについてはまた機会を改めて書くことにしたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます