なるほどねー、Zガンダムってそういう文脈で製作されてたわけか。Zをちゃんと見たのは大学生になってからだが、カミーユが何にキレてるのか謎以外のナニモノでもなく、乗れなかったというのが当時の正直な感想だった。
あ、どうもムッカーです。いきなりあれこれ喋る前に、自分がガンダムをどんな風に見てきたかを書いておくと、こげな感じになります。
小学生でSDガンダム(ボンボン)を読む→0080を漫画で見る→F91を映画館で見る→小5でVガンを通して見る→Gガンをちょいちょい見る→大学生で初代ガンダムからZ・ZZ・逆シャア・0083まで一気に見る。『閃光のハサウェイ』を大学図書館で借りて読む→社会人になって∀ガンダムを一気に見る。以上。
という具合にちょっと変わった見方をしてるんで、タイムリーに、あるいは順番に見た人と感じ方が違うかもしれません(ちなみに保育園の時に34チャンネルでZの「Z・刻を越えて」が流れてたのは覚えて〼)。
それを踏まえて言うと、個人的に初代ガンダムを見た時の感想は、「これで完成してるから、もうこの後の話いらんやん」でした(一応劇場版とテレビ版両方見てますが、劇場版の「めぐり逢い」が流れるあの最後を超えるエンディングには、今までお目にかかったことがないような気もします)。なるほど全てを言いつくしてるわけじゃない(というかそんな作品はこの世に存在しない)けど、あるスタンスからの問題提起としては十分すぎるほど質が高い・・・とでも表現すればいいでしょうか(以前のundertaleの記事なども参照)。それもあって、それ以外の作品を見た時に思ったのは、誤解と反感を恐れずに言えば、「初代ガンダムの二次創作みてーだな」というものです。なるほど逆襲のシャアはあきらかに「シャアとアムロの物語に答えを出そう」というスタンスで完結するのでわかるとしても、他は劣化コピげふんげふん同じ話をキャラを変えて繰り返してるだけに思えたわけです(だから、というわけでもないでしょうが、今もガンダムで一番好きな男性キャラはランバ=ラルで、女性キャラはハモンだったりします。我ながら偏りすぎやwww)。
で、話を冒頭の動画に戻しましょう。そんなわけでZ以降に違和感があった私として、特にZのカミーユのキャラクター(振る舞い)が謎だったりしました。そういう前提で見ると、ここで語られることがなかなか面白かったです。たとえばこんな感じ。
なるほど、Zを作ったのは、ガンダムで時代の寵児になった後色々な作品をやってみたけど、ガンダム並のウェーブを起こすことができず、それでガンダムに戻らざるを得なかったということなのか。そう言えばZガンダムの「Z」は「もうこれで終わり」という意味合いで付けたとか聞いたことがあるが、まあ「本当は違うことやりたいのに。今回だけはガンダムをまたやるしかない」とか色々な鬱憤が溜まっていたのだろうwそして製作者の富野は革命を起こそうとして失敗したクワトロで、新しい世代がカミーユという位置づけで描いてるのか。なるほどね。
こういう照射の仕方はおもしろい。キャラづけの必然性とかではなく、その製作者の個人的状況(作家性)から読み解くってのはガンダムの場合はやったことがなかったので、興味深く聞かせてもらいましたよと。(別の回で言われている)カミーユ=ガルマだからクワトロが(罪悪感もあって)やたら目をかけるってのは、製作者の意図通りじゃなかったとしても、神解釈爆誕だわーと感心してしまったw
これを見ながら私が思い出したのは、Vガンダムにおける女性の描き方だった。見た人はわかるだろうが、明らかに女性の出てくる割合が多い。女性ばかりのシラク隊、ウッソと因縁の対決を繰り返すカテジナ、敵のトップも女王・・・という具合である(ちなみに、シラク隊の一人がカタパルトを支えたままコックピットだけをビームサーベルで貫かれるシーンは今でも時折思い出すことがある)。そして女王は平和を望むが、それを実現するツールとしてエンジェルハイロウが使われると、結果は人が幼児化するというグロテスクな展開。これを見た私は、子供心にナイーブな平和主義への批判を読み取った(たとえば、相手が決して攻めてこないという前提に立つのは、願望を現実と取り違えた愚か者か、あるいは歴史を知らずただ理想を振りかざす独善的なる者たちである、という具合に)。
では、これに製作者のスタンス(これまでの作品での主張)を重ね合わせてみるとどうなるだろうか?言うまでもなく、初代ガンダムの中で大きな位置を占めているのは、ララァという存在である。彼女は年端もいかない少女だが、そのある種の「無垢さ」ゆえに同時に全てを受け入れる母でもある。ゆえに親を殺され戦争と政争に明け暮れていたシャアの心の拠り所となったわけだが、これが逆襲のシャアまで引きずることになる、という意味ではシャアという名のマザーファッカーが人類絶対滅ぼすマン(←言い過ぎ)になって大戦争を引き起こす話、というのをガンダム~逆シャアまでの展開と見ることができる(もちろん、これはかなり単純化した話。ちなみにこのような欠落がその人物のパーソナリティに多大な影響を与え、それが世界をも動かしてしまう例としては、オーストリア出身の落第者ヒトラーや、イギリス王家との混血で強烈なパン=ゲルマン主義者となったヴィルヘルム2世を思い起こすことができるだろう)。
このように見てくると、ガンダムは「母」を巡る話とみなすことができる。ガンダムに限らず、そういうテーマを扱う作品は、女性を偶像崇拝するような性質(母性への過剰な期待)を持ってしまうことがしばしばある。今でこそ『血の轍』や『毒親サバイバル』など毒親問題は広く認識されるようになってきているが、それでもなお親というものへの信頼がなぜここまで強いのだろうか?と疑問に感じる場面や意見はしばしば登場するわけである(まあすでに共同体は空洞化して久しいので、「家族すら他人の集合体である」という現実を見たくないだけかもね)。
そう考えると、Vガンダムはそのテーマに一つの解を与えたと考えることができる。つまりは、「母の無償の愛」とか「平和を愛する心」を発揮した結果、みーんな赤ん坊になっちゃった(これは「総白痴化」と表現してもいい)という話なのである。しかも女王は、それを利用しようとするヤツの悪意に気づかない・・・という次第である。こう見てくると、Vガンダムは、初代ガンダムにあった母性崇拝・女性崇拝ともみなせる要素に徹底してNOを突き付けた作品ということができるだろう(なお、この解釈はカテジナの描き方を見ても納得できるものであるはずだ)。
今回のZガンダムに関する話は、そのように今まで見てきた作品の意味合いを再解釈するきっかけになったという意味で大変興味深いものであったと記し、この稿を終えたい。
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