Teki・Touなる論者は、「『イク』と『coming』の人類学」において、エクスタシーという同一の現象が日英で対極的表現になる理由を、二つの論点から説明している。私はそれぞれに反駁を加えていきたい。
反駁①
感情(感覚?)のベクトルの違いとして、日本語は人が感情・感覚に向かうため「イク」(あるいは「逝く」か)と表現し、英語は感情が人に向かってくるためcomingと表現するのだという。
しかしながら、このような見解は重大な誤りである。そもそも、comingの主語はよく知られているように、「I'M」 coming.であって、要するに人である。なるほどエクスタシーやオーガズム、あるいはそれに類する感覚が主語ならTou氏の説は筋が通るが、人を主語にしてcomingというのが通例である以上、分詞形容詞に立脚した説明は根本から成立せぬと断じざるをえない。結局これは、各種用例の収集や起源の探求を全く行っていない点に由来する過誤と言えよう。
反駁②
エリアーデは確かに20世紀を代表する人物の一人ではあるが、学術的側面においては批判が少なくない(例えば大田俊寛『宗教学』におけるエリアーデの項目を参照)。
また、そもそもシャーマニズムを脱魂(エクスタシー)と憑依(ポゼッション)の二類型でとらえるのはエリアーデの提唱したことではなく、彼は単にその説を踏まえた上で脱魂をより重視しただけに過ぎない。
また、彼の説が主にインドへのロマン主義的理解に立脚しているのはよく知られていることではあるが、シャーマニズムの場合その典型はヤクートやブリヤートのようなシベリア諸部族であり、その他オーストラリアや南米などでも様々類型的存在・儀礼が見られるとはいえ、それを現代の東アジアやアングロ=サクソンの世界観に適用できる根拠はない(カウンターカルチャーのようなものを称揚する人々は、このような身体性の極北にこそ人間の本質と脱近代社会の可能性を見出だすのだろう。しかし、生ー権力的に人をコントロールする術を精緻化しつつある後期近代の社会においては、身体性の信頼はむしろ「感覚的には違和がない=正しい」という認識を正当化し、かえって容易に支配システムに取り込まれてしまうことだろう)。
繰り返すが、シャーマニズム的説明は、「イク」を脱魂、「coming」を憑依に近いとする、言葉遊び的な牽強付会のアナロジーに過ぎない、と言えるのである。
ことほどさように、Teki・Tou氏の論は根拠薄弱な思いつきに立脚しており、それは到底「学」と呼べる代物ではなく、「イク」と「coming」の相違については、より精緻で体系的な研究が待たれる次第である。
written by GGR・KS
(セム系言語のため母音不明)
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