この作品との出会いについては、「邂逅、放浪、高揚」で言及した。それ以降、「ゆめにっき」に関する記事を書き連ねてきたが、特に考察系の話を書く段になって、常にもどかしさを感じてきた(その感覚はずっと前に「灰羽連盟」の考察を書いていた頃のものと似ている)。なぜなら、ただ事象に理屈付をしているだけで、書くほどにむしろその本質から離れていくのが強く感じられたからである(別の表現を用いれば、解釈の欲望に踊らされているだけ→「ゆめにっき対話篇~鏡像~」)。というわけで、今回は初期に度々言及していた視点に戻り、記事を書いてみたいと思う。
ところで、私がゆめにっきの評価を見て気になっていることは、
地面から伸びた手、デパ地下の顔のない人間(?)、謎のトンネルと不気味な(`A´)の群れ、さらには異形の乗った電車etc...といった具合に、悪夢にでも出てきそうな「ホラー」と言っても差し支えなさそうなガジェットがゆめにっきには数多く登場するが、それにもかかわらずこの作品をそのように評価する声には管見の限り出会ったことがない、ということだ。なぜだろうか?
思うにそれは、
のように、「ねこ」、「こびと」、「まじょ」を中心とした主人公のエフェクト、あるいは「ポニ子」、「キュッキュ君」を代表に、可愛らしいキャラ(要素)も同時に多数存在しているからではないだろうか(移動のピコピコ音を代表とする、おどけて可愛らしい効果音もその一助となっている)。だから、先のような「ホラー」的要素が不気味に思えることはあっても、フェータルな恐怖にまでは到らないのだと思う。
より正確に言えば、「不気味さ」および「可愛らしさ」という二つの要素の(相殺ではなく)混淆が、目的の不明確さや非言語的内容と相まって不可思議な雰囲気を作り上げ、ファミコンのmother、ゲームボーイの「ドラえもん 対決ひみつ道具!」(言語的要素を除けばキャロルの「不思議の国のアリス」も)などと似た形で、多くの人たちが引き込まれるのではないだろうか。
また、そのようにして親密さ(intimacy)が醸成されるからこそ、物語の背景が不明な上、ストーリー性さえあるかないか微妙で「感情移入」のフックが極めて少ないにもかかわらず、(私も含め)エンディングで確かな喪失感を覚え、強くこの作品を印象に残している人たちが少なくないのではないか、とも思うのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます