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ブレードランナー2049:魂の唄

2017-10-29 13:03:25 | レビュー系

人工知能は人間を凌駕するのか?この問いの答えはYes and Noであろう。そもそも人間存在についての理解が極めて不完全なものであり、ようやく認知科学の知見などを通じて我々が「人間性」と考えていたものが「自動機械」的反応にすぎなかったことが明らかにされてきてはいるが、それが解明されきるのはずっと先の話であると考えられるからだ(そしてその前に人類が滅亡する可能性は十分ある)。そのようなブラックボックスを抱えているがゆえに、その思考・行動が複雑な仕組みから構築されているという神話は残り続けることだろう。その意味ではNoという答えになる。

 

しかしながら、こういう問いの際に忘れられている視点の一つは、人間は今の人間のままであり続けるか、ということだ。技術が発達し続ける中で、労働から解放され、提供される娯楽に耽溺していく。ある者はVRに没入し、ある者は現実の行為を好むという違いがあっても、それは単なる「趣味嗜好」の問題として片づけられる。底が抜けた社会においても、最低限必要な食糧(ソイレントグリーン!?)や出生数は技術によって確保され、人は「パンとサーカス」の中で生き続けるのだ・・・などというのはいささかわかりやすすぎるディストピア描写ではあるが、とはいえ「人間とは何か」という問いの中で取り沙汰されるhumanity(“human being”ではない)は、戦争などの極限状況の事例などが示すように、実は操作の仕方でいかようにも変わりうることを忘れてはならない。人工知能と人間の相克を問題にするとき、ほとんど「人工知能が人間に追いつけるか」という視点で語られるのだが、そこでは人間の「劣化」という蓋然性が忘却されている。そのことも考慮して冒頭の問いに答えるならYesとなるだろう。

 

少し長い導入になったが、このような理解の元に人間と他の境界線を考える時、この「ブレードランナー2049」もまた参照すべき作品の一つとして歴史に残ることであろう。キャスティングに注目した前回と同じく、このタイミングでネタバレ全開のレビューを書くつもりはない。それを前提にして内容面の特徴的・印象的な部分を語るなら、以下のようになるだろう。

 

〇「ターミネーター」の逆バージョンとでも言うべき展開。
しかし、「レプリカントVS人間」という二項対立ではない。ジョイや博士の振る舞いや設定、描写などが深みを与えている。

 

〇「レプリカント=善」ではもない
ラブの「悪意に満ちた」振る舞いの印象付けるもの。それが必要のない余計な、余分な行為であるからこそ、悪意として視聴者には感じられる

 

〇「レプリカントに感情はない」のか?
それが間違っているのは、冒頭のKとジョイのやり取りやKがジョイに高価な、しかし関係性の本質に関わるプレゼントをしていることからもうかがえる。雨の中の二人の抱擁は名シーンの一つだが、ここに唐突な出向命令が入ることで、利便性の高さの持つ暴力的・散文的側面もまた印象付けられる(これは、監視カメラの設置はセキュリティを向上させるが、同時に我々の行動情報が集積されていくという監視社会化の招来とパラレルである、という議論を思い出させる)。

以上からもレプリカント≠無感情なのは明らかだが、より印象的なのは中盤からのKの変化であろう。こここそライアン=ゴズリングをキャスティングして最も成功した部分に感じられるが、優しく静かな男に、動揺や怒り、義憤が芽生え、それが表面化する部分。それまで抑えた静的描写だったからこそ動への転換が非常に印象的なものに映る(ただしこの辺は物語の本質に関わる話なので、今回は割愛)。

何より全て見終わって気づくのは、「それが真実であるなら、レプリカントは実のところ感情がないと思っている・思わされているだけなのではないか」ということだ。以前の反乱の反省を生かしてイノベーションした結果のKたちのタイプ(ネクサス9型=人間に絶対服従)なはずだが、それでもなお・・・ということで、ますますレプリカントと人間の境界線は曖昧なものとなる。

 

〇では人間はどのように描かれているか?
このように見てくると、非常にレプリカント=間に寄った作品と思えるかもしれない。しかし実際は、人間も実に深みのある存在として描かれている。たとえばKに差別的発言をする同僚たち、悪意なく差別的発言をしてすぐに謝罪の言葉を口にする同僚、厳しい要求はするが正当な評価をしてくれる上司、技術革新から見捨てられた環境で、子ども=自分たちより弱者をこき使って生き延びる者たちetc...人間についても善とか悪などという単純な立ち位置ではなく、背景をもったグラデーションのある存在として描かれていることが物語に深みを与えている(ゆえに、この描写がそのまま現代社会のダイバーシティや差別問題そのものの描写でもあると多くの人は感じるのではないか。そう考えてみると、たとえば廃棄場のミサイル攻撃は、人を人とも思わぬドローン攻撃を連想させて興味深い)。

中でも白眉なのは、Kの上司ジョシ(シャレではないw)の陰影を帯びた演技だろう。彼女は規律に厳しい警官であり、正当に評価してくれ不当な差別から守ってくれる頼れる上司であり、人類存続のために(と彼女自身は思っている)厳しい任務を課す人間の秩序を代表する人物であり、苦悩の中では理解者とぬくもりを求める人でもある。そのような人間臭い存在がかなりクローズアップされて描かれているがゆえに、「人間=レプリカントの圧政者、レプリカント=抑圧されたる者」という図式になるのを免れているし、また人間について単純な理解に陥り、よく言えば安心、悪く言えば思考停止になってしまうことにブレーキをかける存在でもある(この他に、ウォレスという極めて個性的な人物の思考態度も描かれるため、本当に一筋縄ではいかない人間描写となっているが、それは単なる雑多性ではなく、ウォレスにもウォレスなりの軸があり、それが人間にとっては福音、レプリカントにとっては地獄の黙示録となるということだ。これは、やや卑近な例にはなるが、ナチスによるドイツ復興とユダヤ人虐殺という二面性、あるいは個人レベルならヒムラーの家庭人としての温かさと冷酷な差別主義者という二面性などを想起するとわかりやすいか)。

 

以上のように、前作ブレードランナーでも見られた人間とレプリカント(より広く言えば人工物)の境界線の揺らぎは、本作で見事に継承・発展されていると評価できるように思われる。未見の方は没入度の高い映画館での視聴をぜひお勧めしたい。


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