「弱者救済を政府が行うべきか」というアンケートを行った際、それを肯定する割合が先進国内はもちろんアメリカよりも低い、といった辺りに、日本で自己責任論が猖獗を極める一旦が伺える。
そんな自己責任大好き日本人サマの社会で、失敗するリスクを犯そうものなら、「そんなこと始めから予想できたでしょ?自己責任だろ」と言われるのは容易に想像できるので、危うきに近寄らずな行動をする人間が増えるのはある意味当然のことである。
さて、こういう状況を踏まえると、「なぜ日本の学生はパレスチナの惨劇に対してデモをしないのか?」と非難されたなら、私がその学生の立場だったら、むしろ相手に以下のように話すだろう。
「なぜ日本の学生はデモをしないのか?」と言っている皆さんは、まず自分たちは現在進行形でデモなどの抗議活動をやっていらっしゃるんですよね?
そしてその上で、私たちに「も」そうすべきと促進する以上は、それが孕むリスクやコストを調べた上で、我々がそれに直面した場合、あなたがたも責任を負う覚悟がおありだからおっしゃっているんですよね?
ちなみにですが、かつて学生運動が盛んだった頃、逮捕者などのリストが企業にも共有されており、それで就職に難儀したことや、そういう人々が作ったのが駿台予備校や河合塾だったというのは、御存じですか?おや、御存じない。これは驚きですね。てっきりそういうリスクは勘案した上で、それでもやるべしとおっしゃっているのかと思いました。
え、そんな昔の話なら今は関係ないだろって?確かにそうかもしれませんね。では、SEALDsというのはご存じですかね?彼らがいつ頃活動し、今どういう扱いを受けているか知っていますか?
これがあなたたちが私に勧めてくださっている行動の「リスク」や「コスト」です。さて、あなたがたはそれでもやるべしとおっしゃっている訳ですから、いざ事が起こったならば、「自己責任」で切り捨てなんてしないですよね?おや、できない?
なら私は、まさしく「自己責任」において、そんな行動は取りませんし、またそんな行動を促すあなたがたを、「無責任」として糾弾させていただきます。
さて、真意を誤解されそうなので、この辺りで止めておきたい。私が言いたいのは、動画内では批判的に語られているが、日本人の多くが愛して病まない自己責任論からは、遠い世界の出来事への無関心や、それにコミットすることへの諦念はもちろん、仮にそれらが心の内にあったとしても、異議申し立てのリスクヘッジから発言も行動もしない、となるのはむしろ必然的だ、ということが申し上げたいのである。
日本における自己責任論の特性は、その言説のあり方を見るに、何か体系的な世界観や社会理論というよりはむしろ、「社会に迷惑かけんな!」「俺の知ったことじゃねえ!」といった「切断処理」としての側面が強いと思われる。そしてその結果は、公共のために行動せよと言っても、「うるせーカス。こちらが違法行為をやってるならともかく、そうじゃないのにゴチャゴチャ言われる覚えはねーよ。クソして寝ろ」と言われるのがオチである(英語で言えば、まさにMind your own business!ってヤツ)。あるいは、いちいち議論するのが面倒くさいので、笑顔で消極的な同意を示しつつ行動はしない、というパターンのいずれかだろう。
これは別に適当なことを言っているのではない。「自己責任論が生んだ『ゼロリスク世代の未来像』」でも触れたが、学生への調査から窺える「とにかく出る杭になることを嫌がる」という行動パターンからして、デモに対する若年層の姿勢は全く驚くべきことではない、という話をしているのだ(もちろん、私が書いたような過去の事例を検証はしていないだろうし、またそもそもあそこまで攻撃的に主張すれば、それ自体がリスクなので、おずおずと消極的な否定的態度を示すだけにとどまるだろうが)。
まあこういう人間を宮台真司風に言えば、「言葉の自動機械」や「損得マシーン」、「法の奴隷」などと呼ぶわけだが、自己責任論が跋扈する日本社会というものは、そういうマインドを持った人間を量産する体制になっていることを全く自覚していないことが多いのに、私は驚きを禁じ得ないのである(日本の自己責任論を「弱者を切り捨てる酷い人たちの言い分」くらいには捉えている人はそれなりにいそうだが、問題はそんな狭い範囲にとどまらないのだ)。
以上述べたように、学生たちのデモに対する否定的見解を、単に「学生運動の失敗からシラケ世代が生まれて以降のトレンド」だけでは説明するのは不適と思われる。というのもそこには、自己責任論と同時に、少しでも外れればネットなどで袋叩きにされる「同朋意識はないが同調圧力は強い社会」で生きる人間が、極めて必然的に身に着ける行動様式が見て取れるからだ。このようにして、徹底的に「出る杭にならないようにする」発想法が蔓延した結果が、学生たちのデモへの理解を形作っていると見てよいだろう(もちろん全員がという話ではなく、マジョリティがそうだということであり、「外れ値」はいつの時代・地域でも存在することは注意を喚起しておきたい)。
マスゴミ論や週刊誌報道への期待、あるいは古典不要論には様々問題があるのに、なぜそれらがしばしば生じるのか、という背景を分析せずに表面的な言説にだけ反応しても意味がない、と色々な記事で述べてきたが、今回のデモ否定論もまた、同様なものとして取り扱う必要があると思い、取り上げた次第だ。
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