さて前回「もったいない」の欺瞞を書いたわけだが、こういう内容を見てすぐさま「何でも持ち帰ることを信条とする」というように絶対的な基準であると(無意識的にでも)決め付ける人が多いと思うので、補足をしておく。
重要なのは、相対的な思考、すなわちどちらにするか選ぶ視点を持っているかという点にある。例えば極端な話、持ち帰っても百円程度しか得をしないのであればいちいち目立ってまで持ち帰ることを選択はしない。あるいはその日に腐ってしまうようなものであれば、持ち帰る意味のあるのはせいぜい一日分弱だし、そのため利益も少ない。そこから持って帰らない方を選ぶこともあるだろう。
俺が行ったのは、そのような相対的な判断にすぎない。しかし「持って帰るなどありえない」という絶対的価値観に支配されている人は、それに当てはまらない人間の価値を自分のそれに相対するものとして絶対化してしまうのである。だがよくよく考えてみれば、身動きが取れそうもないくらいの飢えの前ではそういった絶対的価値観はしばしば覆されるのであり、突き詰めれば結局それも相対的な基準(あるいは砂上の楼閣)に過ぎない。まあそういう基準を無邪気に信じれるのはある意味幸福なのかもしれないが…
ちなみに。俺はアフリカの子供がどうこうとかは割とでうでもいいと思っており、飯が放置されているときにそういった考えが浮かぶことはない。というか、もしそういった思考を持っているなら、彼らに届けることもできない飯をもったいないとか言う前に、自分の金を送れって話である。
重要なのは、相対的な思考、すなわちどちらにするか選ぶ視点を持っているかという点にある。例えば極端な話、持ち帰っても百円程度しか得をしないのであればいちいち目立ってまで持ち帰ることを選択はしない。あるいはその日に腐ってしまうようなものであれば、持ち帰る意味のあるのはせいぜい一日分弱だし、そのため利益も少ない。そこから持って帰らない方を選ぶこともあるだろう。
俺が行ったのは、そのような相対的な判断にすぎない。しかし「持って帰るなどありえない」という絶対的価値観に支配されている人は、それに当てはまらない人間の価値を自分のそれに相対するものとして絶対化してしまうのである。だがよくよく考えてみれば、身動きが取れそうもないくらいの飢えの前ではそういった絶対的価値観はしばしば覆されるのであり、突き詰めれば結局それも相対的な基準(あるいは砂上の楼閣)に過ぎない。まあそういう基準を無邪気に信じれるのはある意味幸福なのかもしれないが…
ちなみに。俺はアフリカの子供がどうこうとかは割とでうでもいいと思っており、飯が放置されているときにそういった考えが浮かぶことはない。というか、もしそういった思考を持っているなら、彼らに届けることもできない飯をもったいないとか言う前に、自分の金を送れって話である。
「まだ食うのかwwwwこれもやるよw」
とか言われるんだろうなーと思った。