説明を聞くときに、人はそこに論理性を求めることが多い。あるいは論理的でなかったとしても、そこに多少なりとも「筋が通っている」ことが納得するポイントではなかろうか。であるがゆにえ、説明する側に立った時は論理的に話さないと相手に理解・納得してもらうのが難しい。であるならば、プレゼンテーションの技術は云々かんぬん・・・とまあここまでは当たり前だわな(「言い方が重要」・「質問する能力」的な本とかも腐るほど出ていることだし)。
しかし、その事実や技能と、「論理的であれば正しい」ということの間には、深い深い溝がある。この動画の例で言えば、天動説と地動説などがそうであるし、細菌・ウィルスが顕微鏡で見えなかった頃は、血流で説明すること(ガレノスなど)が論理的に見えた場合もあろう。そのような科学的な仮説以外にも多くの事例がある。たとえば典型的なのは、減価償却のことは話さないでマンション購入がお得でっせ!とのたまうような勧誘電話。言われた部分だけ聞けば、得することに納得してしまいそうになるかもしれない。そこでは、リスクやら他の条件やらが意図的に抜き取られ、耳障りのいい文言だけが並べ立てられているからだ。このような手法が取られるのは、説明する側の隠蔽したいという思惑も去ることながら、人を納得させる時には色々複雑な条件付けを排し、単純化してプレゼンテーションした方が、ノイズがない分スッと入っていくことが多いという事情も背景にある(まあこのブログはその逆なわけですがw)。
という具合に、「論理的である」ことと「正しい」ということは、繰り返すが別の話である(当然、支離滅裂だから正しいなどということもない)。そして賢明なる読者諸兄であれば、今述べたような事がポピュリズムによる集合的沸騰にも共通することに気づくだろう。この動画の中で、科学と民主主義の土台は穏健な懐疑主義だというカール=セーガンの言葉が(理想を述べたものとして)出てくるが、まさしくそういう類似性に基づいた発言なわけである。
しかし・・・受け手が真実よりも魅力的な嘘を求めている時、いくらこんな話を書いたところで無理、無駄、室なんだよねえ(超ローカルネタ)。Liar!Liar!でも真実を知ることが全てじゃなーい!なーんつってな(゚∀゚)まあ認知的不協和を始めとしてある程度は人間というものの「納得したい欲望」に自覚的になった上で断念をしないと、容易に魅力的な嘘に丸め込まれてしまうだろうよ。あな、めんどくさし。
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