隠岐を出航するところまで記事を書いたが、このまま本土帰還の話を書くのもつまらんということで、ちょっと行程を巻き戻して月山富田城で見た山中鹿介像のことについて触れたいと思う。
山中鹿介とは、「(尼子家再興のためなら)願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉に象徴されるように、尼子家再興に尽力し続けながらも、悲劇的な最期を迎えた人物として紹介されている。
その忠臣ぶりは江戸時代の軍記物などで喧伝され、戦前には小学校の教科書で紹介されるなど、いわば「武士道のモデルケース」的存在として認知されてきた人物と言える。
しかしながら、例えば渡邊大門「出雲尼子家臣の山中鹿介は忠臣だったのか」(『戦国史の新論点』所収)で同時代史料での彼の動向を見ると、そう単純な評価はできないことがわかる。
そこでは天正6年(1578年)7月12日付で吉川元春が足利義昭の家臣に送った文書の内容として、
・6月24日に上月城が陥落した。
・山中鹿介が懇望してきたので、尼子勝久・同助四郎に腹を切らせた。
・そのほか不肖の者について、近年、毛利方に逆らった者は悉く果てた。
・山中鹿介以下の生け捕った者は、備中の毛利氏の陣所に送った。
といった部分が紹介されている。ちなみに尼子再興勢力の拠点となっていた上月城は、別所長治らの離反によって戦力を分散せざるを得なくなった織田方の救援が実質なかったこともあり、毛利軍の極めて厳しい籠城攻めが続いた結果、降伏へと追い込まれたというのが背景にある。
これだけを見るとわかりにくい部分もあるが、他の落城(降伏)の事例を考えれば、備中高松城において清水宗治の切腹を条件に和議が成立したように、大抵は軍の中心人物(たち)が切腹することで城兵たちの助命が認められるものであった。
それを踏まえると、尼子勝久・同助四郎(尼子氏久)が切腹させられるのはともかくとして、その他の者たち(別の史料では53人とされる)まで死(殺害か切腹かは不明)に追い込まれた状況で、尼子再興軍の中心的人物だった山中鹿介が切腹・殺害されていないのはいかにも奇妙なことだ、と言えるだろう。
とはいえ、山中鹿介が移送中に殺害されているのは複数史料から確認できる。とするなら、実際に助命され生き永らえた人物の事例を見てみるのが良いだろう、ということで尼子勢力重臣の立原久綱を見てみると、毛利方との交渉で貢献のあったらしい彼は、助命が毛利輝元に承認され、病気の治療後に金子氏の元へと送られた。彼は殺害されることはなかったが、番衆をつけて監視される状況であったという。
こういった事例から考えると、鹿介や久綱といった和平交渉の窓口となった人物たちは、自らの(+城兵の)助命を条件として和平を成立させた。それゆえ、尼子再興勢力の中心であったにもかかわらず、「その他不肖の者」たちと違って、その場で切腹・殺害という扱いにならなかった、と見るのが自然だろう。
しかし、久綱でさえ厳重な監視下に置かれたことからもわかるように、彼らは強く警戒されており、より中心的な人物であった鹿介は、元春と輝元の意思疎通の齟齬なのか始めからその予定だったのかまでは不明だが、移送中に殺害される目に遭ったのであった。
このように見てくると、鹿介の行動を江戸時代に膨らまされ、戦前には教科書にさえ載るような「忠臣の代表的人物」として見てよいのか大いに疑問の余地はある。もちろん、「落城寸前の城と生死を共にする事=忠義・正義」などと馬鹿げたことを言いたいのではない。ただあくまで、自軍が厳しい状況下であれば、戦略的に降伏を選択して自身らの助命を請う、いわば「中世武士的な合理性の元に動いていた存在」として認識する方がより実像に近いのではないか、という話である。
ちなみにこれは逆のパターンも色々あって、例えば梟雄の代表格とみなされる宇喜多直家は、同時代史料から見た実態を見ていくとそれほど他の戦国大名とやっていることは変わらないし、あるいは裏切り者の代表のように見られる松永久秀は、実際にはその息子の所業と混同された描写が江戸時代になされたことで、結果として「斎藤道三と並ぶ悪人」のように評価されるようになった。
要は、江戸時代になって戦乱が終わることにより、武士のサラリーマン化が進み、それが「上司に忠実な家臣たれ」という『葉隠』で描かれるような武士の理念型を生み出した。また、戦国時代に朱子学が盛んだったことは有名だが、こうした儒学の価値観を元にした『甫庵信長記』や、あるいは民衆ウケを狙った諸々の軍記物や講談が流行ることで、戦国時代の下剋上イメージと、その中にあって忠義を貫いた人物たちという対立図式が定着していったのである。「忠臣の代表格」とでも言うべき山中鹿介の人物像も、そのようにして構築されていったと評価することができるのではないだろうか。
なお、このようして形成された武士像がどのように歴史観などへ影響を与えてきたかは、それなりに重要なテーマなのではないか、と最近強く思うようになっている。
というのも、「武士=武士道・治者」的な見方は近世以降に構築されたものであり、中世の武士がそうでなかったことは、呉座勇一の『武士とは何か』で取り上げられた戦国時代の『世鏡抄』などに見える通りである。中世の武士は無能な主君は平気で見捨てる存在であって、江戸時代のサラリーマン武士よりもむしろ、双務契約に基づいて契約不履行ならば敵対し、複数の君主に仕えもする中世ヨーロッパ騎士の方にこそ、むしろ近い部分を持っていたのであった(なお、絶対王政が広がっていく近世西ヨーロッパにおいては、諸侯・騎士の没落が進んだことで彼らが官僚・常備軍として廷臣化=サラリーマン化していくという意味で、日本における中世武士→近世武士の移行形態と類似した部分が観察されるのは大変興味深い)。
これまでは、「武士=武士道・治者」から外れた部分は、いわば戦国時代にのみ特徴的に見られたものと世間には認知されてきたのではないか(なお興味深いのは、そこから外れた部分=自力救済的な側面などが近世の「忠臣蔵」で称揚されたり、あるいは近代以降の暗殺事件とその評価のように、世間でいわば「粋」のように見なされてきた部分もあることだが、これらの分析については機会を改めたい)。しかし実際には、戦国時代特有に見える諸々の現象・行動は極めて中世武士の特性に由来するものであり、むしろそれを近世以降に形成された武士像で評価しようとすることこそバイアスの最たるものではないか、と思うのである。
以上。
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