YU-NOエンディング批評~フラグメント3~

2012-04-20 18:18:17 | YU-NO

3月初旬のまだ肌寒い頃に1月以上先の記事を書いていると、一体どれくらい暖かくなっているのだろうと妙な心持ちになる。とりあえずGWの旅行をひたすら夢見て仕事をしていることだけは確かだろうwまあそれはともかく、YU-NOエンディング批評第三段と行きましょうか。

 

[原文]
YU-NOエンディング批評に関するフラグメントも「違和感の萌芽」、「たくやの行動原理」に引き続いて三つめとなる。「プレイヤーにとって意味があればたくやのキャラなんてどうでもいいのでは?」という意見への反論が思いつかなかったためか、最初の断片はエンディングとたくやのキャラの齟齬についてもう一度考え直しているようだ。その他については、注を参照のこと。


<YU-NOエンディングのギャップ>
本編で描かれる[たくやの]姿と静謐さのギャップ。また家族への情念(と日常性の希求)からすれば、広大ではなく(異世界で[広大が]意識されないのは[自分が]父になったから?)、またユーノでもなく、事象の根源という大きな物語に行き着くことで足れり(=エンド)とするのは疑問。最後で世界の救済(大きな物語)よりも家族(相対的には個)を選ぼうとする→安っぽいヒロイズムに堕することを避ける意図があるにしても、家族への情念はかくの如し。広大は大きな物語としてとらえるべきか?[近代、ポストモダンの]図式からの脱却→家族とは日常性の獲得ではないか[広大を連れて帰る発言を想起]?=事象の根源(非日常)と合わない。真理への意志、観想(テオリア)


前述のように、たくやのキャラを問題にする意味は本当になるのか?という疑問からこの覚書が生まれたわけだが、ここまでくるとたくやの行動原理に関する言及が多くなり、「たくやの行動原理とエンディングの齟齬」というドラマツルギー批判にかなり近づいている。


<広大の研究テーマ「不老不死」>
回帰に疑問を持つ人へ…並列世界はたくやの本来いるべき場所ではない、と言われている。とすれば、プロローグ(一本道)の場所に戻るのは回帰と表現してよい。さて、そうして単一なる展開を経て世界の根源に行き着くのが、唯一の真理への回帰ではなくて何なのか。

広大を近代的な「大きな物語」ではなく、家族として考えてみたらどうか(ただし、広大が生身の存在ではなく非常に象徴的存在として描かれていることは重視すべき)?広大、デラグラントからの脱出、セーレス、ユーノ…常に日常性を取り戻すための旅?大義名分を求めないたくやの復讐心(近代的でない)、アマンダ発言


これは、東浩紀のエンディングについての見解に対して私が行った次のような批判、すなわちYU-NOのエンディングは大きな物語が失効したポストモダン的状況を表すのではなく、むしろモダンへの素朴な回帰なのだ、という話に対する疑問を想定した記事である。なお、このモダン(「大きな物語」)への回帰という解釈は、同時に「大きな物語」から距離を置く有馬たくやにとって現行のエンディングがそぐわないという批判にもなる。広大を「大きな物語」ではなく家族として捉えなおした方が適切なのではないか、という考えはそこから生まれたわけだが、それは家族の希求が物語の全てにわたって貫かれているという印象をますます印象付ける結果となった。とはいえ、後光が射し、顔のない象徴的存在として広大が意識的に描かれていることはあまりにも明白であるのだが。


<結論へ向けて反論つぶし…>
1.小説版と同じだが、意味付けとディーテイルを明らかにした。2.理系的問題…アイテムとかがすでに×。3.現世編とのコントラストという効果は?根源まで到り、あえて(終りある)日常に回帰させる。これによって一貫した本編の描写と見事に繋がる(必然性・ドラマツルギー)。4.プレイヤー視点としてはいいじゃん。最も説得力あり(エンドの内容そのものは[様々な]意味があるから当然)。主人公を抜け出して…物語がたくやの行動様式に強く影響されている点に注意したい(原因事象)。最後のみ[プレイヤーに]都合の良い「白紙の主人公」にするのは必然性がない。ユーノ追い掛けるか。最後の振舞…


もはやここまでくると、たくやのキャラを云々することは意味が無い、という見解に対する反論はほぼ完成している。あとは、そこで示される行動原理が事象世界を空中分解させないための軸として機能していることを示せばいいだけ、という段階。ちなみに、「最後のみ~ない」(大きく言えば一貫性の問題)のあたりは、いずれ君が望む永遠に関する記事でも触れることになるだろう。


<たくやは近代的人間か?>
家族の希求を人によっては近代的だと見るかもしれないが、たくやがそのような関係性の破壊者としても振る舞っていることを想起したい。たくやのエディプスコンプレックス、あるいはそれを意識した話の展開は明らかだが、エディプス期は社会性を獲得する前の通過点とされている(理解が正しいか否かはともかく、原典参照側[=作者]の理解)。あえて図式的に言うなら、彼は未だ家庭という卑近なレベルでは近代的側面を持っているれども、一方で大きな物語を求めるには到っていない、ということである。しかもこの傾向は、まさに最後の最後まで変わることがなかった。


あまりに図式的になりすぎること、かつ話が精神分析の方にそれてしまうことなどから、この問題には踏み込まなかった(「有馬たくやの描かれ方」ではなく、「有馬たくやのような人間の話」に議論が逸脱していくのが目に浮かぶ)。そして逆に、他から理論を援用するのではなく本編の具体例を積み重ねる形をとったわけである。


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