社会の変化と「空気」、そしてコミュニケーション

2010-03-17 18:01:17 | 生活
たとえ周囲が「地雷」だらけでも踏み出すべし!という要求は非現実的だ。というのも、そんなコミュニケーションコストを払わなくたって、ネット(ゲーム、ブログ、ツイッターなど)を初めとしてオルタナティブがいくらでも存在するからだ。まあ価値観が全く違うのに波風立てるなと言われりゃおそろしく表面的な話に終始するしかないし、そこまで無理して対面で話さなくてもいい方法が確立されているなら、そっち方面でネットワークつくる(あるいは自閉する)方向に行くのは当然だろう。それを個人的な好き嫌いで怒り狂うのはまあ自由だし、たとえば挨拶キャンペーン的なものをやるのも勝手にどうぞってな話だが、根本的な解決になっていないのでほとんど意味がないんだな。まあ枠組みへの志向性を持てないならアドホックな対症療法になるしかないんだけど、それでますます自分の首を絞めたりした日にゃあ目も当てられませんよという話である。


要するに、コミュニケーションの活性化が社会全体で成し遂げられるようにしたいのなら、「地雷」の多くが実は「地雷」ではない(=踏んでも取り返しのきかないものでなはない)のだと人々の認識を変えていく他ない。しかしこうなると、教育以外は単なる個人の心がけの問題にしかならず、実現は相当な時間がかかるだろう。しかも今日、価値観が多様化した状況で社会不安が増大し、むしろわかりやすいモノ・崇高なるモノへの埋没と多様性フォビアが生じている(不安のポピュリズム)。つまり、前に言った「差異の承認とコミュニケーションの齟齬・失敗の肯定」とは逆行している(というか、仮に認めているように見えても、単なるズブズブの寛容さにすぎず、「空気」でひっくり返る可能性がある)。傍から見れば今こそエーリッヒ・フロム(=ナチスドイツがなぜ支持されたのか)を思い出せという話だが、そういう歴史的・理論的言辞が身近な生きにくさにどれほど効果があるのかは大いに疑問である。てことは結局、ひぐらしの祭囃し編のようにガス抜き的なものになるしかないのかねえ(例えばあれを「異物に対する包摂性」という視点で評価する人がいるかもしれないが、受け取り手に「異物に対する」という前提が欠落していれば、単に「みんな仲良し」を肯定するガス抜きで終了である。まあもっとも、作者側は「野村」を生かしたままにしているなど楔は打ってるんだけどね)。しかしそれは本質的な解決には全くならないわけだがはてさて…



(草稿)
成熟社会化などによる価値観の多様化

違って当然なのだから、本来的にはコミュニケーション能力(説明能力&理解力)の向上こそが必要

しかしみんなで仲良くすること(調和)こそが重要だと教え込まれる

きちんと言うことを聞いてみんなと仲良くしようとすれば、価値観の違いにぶち当たる
=周囲は地雷だらけ

「空気」読みまくって動けなくなる=(外見上の)コミュニケーション不全

(ストレスも相まって)自己主張する人間を潰す
or
実態と乖離したコミュニケーション規範を見限り、結果としてコミュニケーションそのものから離脱する

「みんなと仲良くすべし」というのはいわゆる「いい子」「まじめな人」ほど追いつめられる規範で、いかに抜け駆けするかがむしろ「頭の良さ」のパラメーター

そんな規範を押しつけるというのは、一体何がしたいんだろうか?

いい加減過去の思い出に浸るのはやめたら?まあオナニーに耽溺して自分が死んだり被害受けるのは自由だけど、それを人に薦めたりましてや押しつけるのは全く別の話だ。
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