「『調和』と『地雷』」において、今日の日本においては価値観の多様化が不可逆であるとともに、「とにかく他人と波風を立てない」といったコミュニケーションの規範が実態と乖離しており、それが生きにくさと「社会不適合者」増大の要因になっていると述べた(それだけが原因というわけではない)。
ところで、「みんな仲良く」という「調和」の在り方を重視する人は、他人を信じた方が実はお金が儲かるという実験結果などを引いて、「自分だけ抜け駆けしようと思わずまず他人を信頼する方がよいのだ」などと自分の意見の正しさを確認しようとするかもしれない(実験内容は正確には覚えていないが、両方が両方を信頼すると答えた場合~ドル、片方だけが信じると答えた場合、信じなかった方だけが…ドルもらえる、といった内容で、相手はどうせ裏切るだろうという予期のもとに行動すると統計的に損をするという結果が出た、とか何とか。ちなみに取り調べでは、共犯がいる時に「相手が先に自白したら相手だけ無罪になっちゃうよ~」的なことを言って相手が自分を売るかもと疑心暗鬼にさせ、結果両方から自白を引き出すといったことをやっているそうな)
しかし、このような考え方は問題である。
不透明化した社会においてはむしろ信頼がますます不可欠なものになってきているというのは事実だ(といっても、他者への信頼しないがゆえの機械的ゾーンニングも進んでいるわけですが)。問題なのは、信頼の在り方と醸成の仕方なのだ。先の例で言えば、実験結果は信頼が先験的に望ましいかのような印象を与えるが、現実のやり取りは信じる裏切るの単純な二者択一ではない(もちろん、社会の流動性が高まり共同性の意識が低い社会では、相手をいかに出し抜くかに重点が置かれやすくなる部分はあるだろうが)。というより、自分が相手を信頼し、相手も応えようとしているにもかかわらず、すれ違いや衝突が起こってしまう状況の困難さこそ「地雷」なのではないかと。つまるところ、上記の実験は信じるか裏切るかという善悪二元論的な捉え方では有効だが、価値観の多様化した成熟社会におけるコミュニケーションの複雑さ・困難さには適用できない(実験そのものが無価値ということではなく、その結果を適用する事象が間違っている)。それこそが問題の根幹にあるにもかかわらず、だ。
西欧的な信教・思想の自由は、元々そういう不可避な齟齬・衝突をいかに調停するかという現実的な必要性から生み出されたのであった。ということは、そのような土壌が形成されなかった日本でそれが根づいてこなかったのはある意味必然とも言える。しかしまあ西欧化など初めっから現実的ではないにしても、そこにテコ入れしていかないとどうにもなるまい。伝統的な共同体が復活しえない以上、かつての「調和」に回帰する方向では立ちゆかないのである。
(草稿)
調和の重視と多様な価値観の許容…それが病的なコミュニケーションの一因となっている。
価値観が違うわけだから、自分の意見をきちんと言えば、生産的な議論ももちろん生まれるけれども他人との齟齬や衝突(のように見えるもの)を必然的に伴う。調和を重視しなければならない以上、そのような行為を忌避する方向に行かざるをえない。まさに、「周りは地雷だらけ」なわけだ。
なるほど、そこから「だから今までと同じように対処できるはずだ」などと言うのなら、あまりにも社会状況の変化に対して鈍感なのではないかだろうか。というのも、共同体や伝統、そして成長し続ける(輝かしい方向に向かう)社会という神話が崩壊し、さらには共通の
共通前提を仮構することは困難である。
現在、規範と実態の乖離は昔とは比べ物にならないレベルになっているからだ。
同じである、かのようにふるまう。再帰的な態度の要求。
おそらくみんな仲良くと言っている人間の多くは善意のつもりだろう。また良いことを言っているつもりだろう。
しかしそれが、「いい子」「まじめな人」ほどバカを見る世界かもしれないと一度でも考えたことはあるのか?
まあまずは意見の相違を人格の好き・嫌いに短絡させてしまう思考様式から何とかしないとね…
ところで、「みんな仲良く」という「調和」の在り方を重視する人は、他人を信じた方が実はお金が儲かるという実験結果などを引いて、「自分だけ抜け駆けしようと思わずまず他人を信頼する方がよいのだ」などと自分の意見の正しさを確認しようとするかもしれない(実験内容は正確には覚えていないが、両方が両方を信頼すると答えた場合~ドル、片方だけが信じると答えた場合、信じなかった方だけが…ドルもらえる、といった内容で、相手はどうせ裏切るだろうという予期のもとに行動すると統計的に損をするという結果が出た、とか何とか。ちなみに取り調べでは、共犯がいる時に「相手が先に自白したら相手だけ無罪になっちゃうよ~」的なことを言って相手が自分を売るかもと疑心暗鬼にさせ、結果両方から自白を引き出すといったことをやっているそうな)
しかし、このような考え方は問題である。
不透明化した社会においてはむしろ信頼がますます不可欠なものになってきているというのは事実だ(といっても、他者への信頼しないがゆえの機械的ゾーンニングも進んでいるわけですが)。問題なのは、信頼の在り方と醸成の仕方なのだ。先の例で言えば、実験結果は信頼が先験的に望ましいかのような印象を与えるが、現実のやり取りは信じる裏切るの単純な二者択一ではない(もちろん、社会の流動性が高まり共同性の意識が低い社会では、相手をいかに出し抜くかに重点が置かれやすくなる部分はあるだろうが)。というより、自分が相手を信頼し、相手も応えようとしているにもかかわらず、すれ違いや衝突が起こってしまう状況の困難さこそ「地雷」なのではないかと。つまるところ、上記の実験は信じるか裏切るかという善悪二元論的な捉え方では有効だが、価値観の多様化した成熟社会におけるコミュニケーションの複雑さ・困難さには適用できない(実験そのものが無価値ということではなく、その結果を適用する事象が間違っている)。それこそが問題の根幹にあるにもかかわらず、だ。
西欧的な信教・思想の自由は、元々そういう不可避な齟齬・衝突をいかに調停するかという現実的な必要性から生み出されたのであった。ということは、そのような土壌が形成されなかった日本でそれが根づいてこなかったのはある意味必然とも言える。しかしまあ西欧化など初めっから現実的ではないにしても、そこにテコ入れしていかないとどうにもなるまい。伝統的な共同体が復活しえない以上、かつての「調和」に回帰する方向では立ちゆかないのである。
(草稿)
調和の重視と多様な価値観の許容…それが病的なコミュニケーションの一因となっている。
価値観が違うわけだから、自分の意見をきちんと言えば、生産的な議論ももちろん生まれるけれども他人との齟齬や衝突(のように見えるもの)を必然的に伴う。調和を重視しなければならない以上、そのような行為を忌避する方向に行かざるをえない。まさに、「周りは地雷だらけ」なわけだ。
なるほど、そこから「だから今までと同じように対処できるはずだ」などと言うのなら、あまりにも社会状況の変化に対して鈍感なのではないかだろうか。というのも、共同体や伝統、そして成長し続ける(輝かしい方向に向かう)社会という神話が崩壊し、さらには共通の
共通前提を仮構することは困難である。
現在、規範と実態の乖離は昔とは比べ物にならないレベルになっているからだ。
同じである、かのようにふるまう。再帰的な態度の要求。
おそらくみんな仲良くと言っている人間の多くは善意のつもりだろう。また良いことを言っているつもりだろう。
しかしそれが、「いい子」「まじめな人」ほどバカを見る世界かもしれないと一度でも考えたことはあるのか?
まあまずは意見の相違を人格の好き・嫌いに短絡させてしまう思考様式から何とかしないとね…
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