『科学革命の構造』、パラダイムシフト、不完全性定理

2023-08-04 12:23:07 | 本関係

 

 

「世界を言葉で理解している」というよりはむしろ、「言葉で世界を作り上げている」というのは、カントの「物自体」やソシュール言語学なんかでもよく言われる話だよねえ・・・この前の記事が「英語教育とレジスター」だったので、言葉に関わる導入から入ってみた。

 

そう言えば今は次の毒書会に向けてクーンの『科学革命の構造』を読んでいる最中だが、そこでは「パラダイムシフト」という言葉が独り歩きしていったことと、それにクーンがどう対応しようとしたのかが序章で触れられており、興味深かった。

 

まあどうしてもキャッチーな言葉は積み上げられた理論より手っ取り早い(わかった気になれる)こともあって人を魅了しやすいが、これについて自分が連想したものの一つが、前の毒書会で扱った『イデオロギーとユートピア』(1929年)とほぼ同時代に発表されたゲーデルの不完全性定理(1931年)だった。

 

これは数学の中でも限定的な分野での話で、そこにおいて無矛盾というものが成立しえないことを証明したものであるが、当時の数学界の中にあったヒルベルトやノイマンらを中心とする形式主義とラッセルやフレーゲルらを中心とする論理主義の対立の中で、形式主義を終わらさせただけに限らず、(良きにつけ悪しきにつけ)広範な影響を与えていった。その理由は、この定理を極めて雑駁に理解するなら、「この世には無矛盾ということが措定できない」ものだったからだろう(ということは当然、セム的一神教によくあるような、「全知全能かつ無矛盾な存在である唯一神がこの世界を統御している」などという世界観も成立しえない、という話になる)。

 

喩えて言うならこういうことだ。科学とは、「神(話)がそう定めた」という地点から始めずに、具体的実証の積み重ねで世界を体系化していく営みだとするなら、「真理」とは天井であり、一つ一つの実証で得た知見は一枚の紙切れのようなものである(中世のいわゆる普遍論争で言えば、前者は実在論的で後者は唯名論的なアプローチ)。このようにみなせば、仮に一つ一つは薄い紙切れであっても、それが積み上げられた地点から後生たちが真理への距離を埋めていくならば、億劫の時を要するかもしれないが、(その前に人類が滅びない限りは)いずれは真理に到達できるはずである、というイメージ像を持つことができる。

 

しかしながらゲーデルの証明した定理は、そのような世界観がもはや通用しなくなったという当時の疑念を、確信へと変える後押しをした。これをあえて抒情的に言うなら、18世紀の科学革命や啓蒙思想≒理性重視・理性崇拝、19世紀後半の「神は死んだ」という言葉に象徴される世界観の揺らぎと実存主義(同時代に広がった共産主義が「神なきキリスト教」とされたことを想起してみるのもよい)、そして20世紀初頭のポパーの仕事などによって象徴される時代の空気感を、「厳密な理論によって正当化する」土台を与えたと表現できるだろう。

 

そしてこのような「世界観」は、量子力学、構造主義、多元文化主義など様々な形でさらに理論化・具現化されていったわけである(ちなみに、このような状態における共生を模索したのがローティのリベラルアイロニズムであり、またそれに対する反応・反発の一つが保守主義のバックラッシュとみなすことができる)。

 

というわけで、このような言葉の独り歩きに関する「範型」の理解は、クーンの述べたパラダイムシフトが辿った運命とその必然性を正しく評価する上でも有益だろうと述べつつ、この稿を終えたい。


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