「男性は女性に奢るべきか否か」論争の話をいくつか書いてたためか、ネットニュースの記事で「なぜ『おごらない男』に腹が立つのか・・・婚活中の女性ライターが『悔しくて泣いた』という秋葉原の夜~そこには『自己肯定感の低さ』が現れている~」というのがお勧めに上がっていたので読んでみた(てか題名長い!)。
結論から言うとツッコミどころ満載過ぎる話なのだが(まあある意味で正直に書いているということなのか)、ここでそれを逐一書くことはせず、「奢ってもらう」という行為が認知の歪みを生み出しているという視点で私見を述べてみたい。ちなみに、補助線として参考になる鈴木涼美の「『奢り奢られ論争』奢られるのもなかなか難儀な件」と、ジェーン・スーの『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』を取り上げつつ、先に進んでみよう。
まず私が思ったのは、
1.この二人はともに「クズ男」の香りがする(筆者がどういう人間かはまた別問題で)
2.なんで「奢ってもらえない私」と自己卑下して泣いたり、それを自己肯定感の低さと結びつけるのかがわからん
といったところである。
まず1から。この記事で主に話題に上がっている「公務員」と「ドラキュラ男」の二人をなぜ「クズ男」と表現するかと言うと、つまるところ自分の事しか頭にないし、しかもそのことで他人を疲弊させていることにすら気付かないレベルのクズだからである。
前者の「公務員」は、最初の対応こそ人当たりもよいが、離婚関連の悩みになると一方的にしゃべり倒し、しかも相手が疲弊しているのにも気づかず二件目へ行こうと申し出て、そこで例の会計場面で母親に随伴して始めて喫茶店に入る子供のような稚拙な対応を見せている(もうここで仕事と家庭の二面性が見え隠れする)。これはつまり、相手を便利な「カウンセラー」扱いし、何となれば母親代わりとして依存するような兆候すら感じられるのだ(「ねえママー!今日こんな酷いことがあったんだよ!!」てか?別にお悩み相談をするのは結構だが、初対面の相手に場も弁えずやるあたり、この人物の社会性を疑うところだ。一方的に話を聞いてほしければ、金を払ってカウンセリングなりキャバクラなりに行けばよろしい。というか、こういう時にこそbotを活用すればいいのである)。
彼の属性は、結婚歴があって二人の子供がいることを除けば、48歳の公務員ということ以外に詳細な来歴は明かされていないが、あるいはもしかすると、親の言われたように「真面目」に生きてきたマザコン傾向のある男で、パートナーを当然のように母親代わりにして相手を振り回す人間ではないかとすら予測される(まあ離婚した側を他方が批判するのは一般的傾向として無理からぬこととしても、散見されるチャイルディッシュなぶら下がり的行動を見るに、妻の側は随所でフラストレーションを溜め、少しずつ壊れていったのかもしれない、という可能性さえ想定する)。
もちろん「公務員」の件は、筆者が「奢ります」と言ったのに勝手に相手(男性)に奢る役割を求めるという「忖度への期待」に基づいている点に色々と問題があるのだけれども、そもそも前述のような精神性の人間が「母親」に奢ろうなんて発想しますかね?て話で、こういう「他人のことを考えられないオナニー野郎」に奢ってもらうことに何の価値があるのか私には全くわからない。むしろこっちから願い下げであり、割り勘で金払ってとっとと縁を切り、「ハイ次いこ次!」という事案だと思うがどうだろうか?
次に後者の「ドラキュラ男」。まあこっちはもう見えている地雷なので前者より特に説明すべきことも少ないが、要するに「俺スゲー」系のオナニストと言えそうだ。だから相手の反応はお構いなしに自分スゲー感をアピールしてくるし(男根の大きさアピールとは余りにもわかりやすい)、ゆえにそれを否定するような不都合なノイズが出てきたら、矮小な自分を守るため、自分をネタにするでもなく、相手と対話するでもなく、相手の否定を選択するというわけだ。だから、こういう手合いが目の前にいてどうしようもない時は適当におだててやり、基本的には近づかないのが賢明と言える。
つまり、最初の直感に従って、周りの空気なんか読まずに、「今回は外れだった」と早々に損切りするべきだっただろう。それができなかったのは、自己肯定感の低さというよりむしろ、中途半端に周囲へ気を遣ってしまう傾向に原因があるのではないか(「公務員」の事例でも、自分から「ご馳走します」と言いながら、その実奢りでないことに違和感を覚えたことにも、類似の傾向が見られる)。
で、この後一万円を叩きつけて店を出て、5000円どころか1000円で良かったとか娘に言ってもらったことを取り上げつつ、自己肯定感が低いの何だの書いているが、そこで嘆くべきことがあるとすれば、「奢ってもらえない自分が悲しい」ではなく、「こんなクズたちにも一縷の望みがあるかもと錯覚して時間を空費した自分が恨めしい」ではないのか?、というのが私が非常に不思議に思う点だ(まあ穿った見方をすれば、そのように言ってもらって自己正当化、つまり自分を慰めてほしいという意図で書いているのかもしれないが)。
さて、ここから話を2の「なんで『奢ってもらえない私』と自己卑下して泣いたり、それを自己肯定感の低さと結びつけるのかがわからない」という話に移そう。一応言っておくが、自分の大切な人や、自分が強い魅力を感じる人から自分が特別扱いされてとても嬉しかった、という類の心情は理解できる(それが労いの声掛けであれ何であれだ)。しかし、マザコン傾向の「公務員」や小心者の自己中「ドラキュラ男」といったクズ人間たちに奢ってもらうことで満たされる「自己肯定感」とは一体何なのだろうか(まあ一生のパートナーが欲しいんじゃなくただ「モテたい」と思ってるんなら、ザコ共に群がられるのも一種の「ステータス」ではあろうから、話は別だがね)?
ここには、「奢られること=女としての魅力」という思い込みがあり、もっといえばそれは、40代後半の筆者が若かりし頃にあったであろう、バブル期の「お姫様扱い」の残滓・幻想が抜けきっていないことを示しているのではないか(この見立てが正しいなら、筆者にとっての最適解は、婚活ではなくホストじゃないかねえ・・・まあ色々と自分の中の欲動やコンプレックスを押し隠している分、落ちる時はあっという間なのではないか?余談ながら、女性の性の商品化の一端を示す「援助交際」が流行語大賞に入選したのは1996年のことである。これを元に「男性は女性に奢るべきだ」という一般化した発想を「娼婦の考え」と喝破した話を想起したい)。
そして興味深いのは、冒頭で引用した第五回より前の記事において、筆者は「男性の参加要件に合わせて女性も年収や学歴要件を認定すべきだと思うのは私だけだろうか」と書いているし、冒頭でリンクを張った第5回の記事でも「私はケチな人間ではない。飲食する相手が男性でも年上でも、自分の分は払いたいと申し出てきた人間だ」と書きながら、結局のところ男性の奢りに期待するメンタリティに行きついている点だ。
これは意図せず内なるダブルスタンダードが浮き彫りになったのか、はたまた婚活の仕組みの中でそれに批判的な眼差しを向けながら、いつの間にかそれに毒されてきたことを示しているのか・・・そういう部分を掘り下げて書くと、筆者の経験は「ルポ 40代婚活女子」的なものとなって、より批評的・教訓的なものとなって大いに有益なものとなるのは私だけではないだろう。
また、そのような分析・解体の中で、自分を縛っていた思い込みから比較的自由となり(cf.二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』など)、それが思い込み通りにいかない自分への「自己肯定感の低さ」からの解放にもつながるのではないか、と思うのである。
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