夏からずっと体調が低空飛行を続けているが、それもこれも「共感」や偶然性なんて固い話ばかりしてるからかw
さて今回の記事、というか草稿は「『共感』の問題点」や「再帰的思考の生まれえぬ場所」、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」などの元になったものだ。半分くらいはそれらの中で整理して提示することができたが、「いい人」や境界線の問題など残り半分は「嘲笑の淵源」や沙耶の唄に関する記事にも繋がる話なので、一応掲載しておくことにする。文章が途切れ途切れで見苦しいが、その点はご容赦を。
(以下本文)
「君が望む永遠」については、主人公鳴海孝之に対するプレイヤーたちの評価がナイーブすぎるという批判を何度となく書いてきた(例えば「『ヘタレ』と自己認識」)。そこでは、自分が虚構のキャラを選ぶゲームをやっているという事にすらプレイヤーたちが無自覚で、その結果援助交際をやっている人間がその相手にやめた方がいいと素で言うような恥知らずな行為を平気でやっていると述べた。ここでは、前提への無自覚さという観点で話を掘り下げてみたい。
さて、こういった厳しい批判を繰り返しているからといって、私はプレイヤーたちの人格否定をしているわけでは全くない。
むしろ実際に話してみると「いい人」かもしれないとさえ思う。
私が一連の記事言わんとしているのは、そういう認識がある領域(以上)に関しては何の保証にもならないということだ。
≠誰もが本当は腹黒い。「いい人」と「空気」、「いい人」の閉塞
話が飛躍するように聞こえるかもしれないが、ある集団にとっての「いい人」は、他の集団にとっての虐殺者であるかもしれない。
ユダヤ人の密告・虐殺、ルワンダの虐殺(SHOOTING DOGSの恐怖の演出)。カール・シュミット
「いい人」でいながらにして「極悪人」。両義性、勧善懲悪の問題点、そこから見えるもの
プロパガンダ、カウンタープロパガンダ
より善くあろうとすることがかえって事態を悪化させる逆説、根源的な未規定性
戦争での残虐行為を国家や政権だけのせいにするのはナイーブすぎ。ジュジク
逆に利で動くとっぽい人間の方が、逸脱しないことも
ただし、論理的である「のに」間違うのではなく、論理的である「からこそ」間違う事もあるのを理解してるか…カラマーゾフの兄弟の裁判
枠組みから外れた途端に不快感を垂れ流すことしかできない=枠組みの中だけ
「たかがエロゲー」確かに。しかしそれゆえに本性が露呈するとも言えるのでは?
まあこうなると「いい人」というカテゴリーの曖昧さ、いい加減さの問題と言った方がいいのだが、
なぜこんな話をするかというと、どうも「共感」できるということと「いい人」というのが近いものだと単純に考えられているように思うからだ。
もっとも、虐殺を命令・遂行するナチスの将校たちは
そういう人の方が相手の気持ちがわかるという曖昧な理由?
ある価値観に埋没する中で「いい人」と呼ばれる。「道徳」という名のローカル・ルール、地方言語
「共感」の 大澤真幸 東浩紀 『自由を考える』
相手の文脈で考えようとする行為なしには無理。自分の文脈を離れ、相手の状況を考慮しながら行動や思考をトレースし直す。
極めて意識的・思考的な営為。特にライフスタイルや価値観が多様化した今日、外国人だとか遠くに住んでいなくても、隣人からして。
「空気」を読むことに窮々としている人たちには無理ってことですよ。背景に決して意識が及ばない。表層に振り回されるだけ。
つまり「共感」に必要とされる思考のプロセスは、前提に立ち返った上であえて選び直すという再帰的思考と近いものがある。
さて、ではプレイヤーたちはそのような思考ができているのだろうか?
再帰的思考×。共感も×。彼らは自分の基準の中でおそらく快・不快の話をしているだけだ。ゆえに環境などを含めた相手の前提に立ち返って思考・行動を考える「共感」を、自然な「共感」などという物言いは逆効果。
ローティ的なリベラルアイロニズム。もっとも、快を求めるという私的行為がノイズ耐性を下げ共生の基盤を切り崩してしまうのなら
明確に切り分けることは不可能
レッシグの自由、アーキテクチャに関する考え方
再帰的思考ができない。
この価値観の多様化した社会では排除を強化するだけで終わる。
※
余談だが、この記事に見られるような反応のあり方については、「ナショナリズムのゆくえ」という
さて今回の記事、というか草稿は「『共感』の問題点」や「再帰的思考の生まれえぬ場所」、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」などの元になったものだ。半分くらいはそれらの中で整理して提示することができたが、「いい人」や境界線の問題など残り半分は「嘲笑の淵源」や沙耶の唄に関する記事にも繋がる話なので、一応掲載しておくことにする。文章が途切れ途切れで見苦しいが、その点はご容赦を。
(以下本文)
「君が望む永遠」については、主人公鳴海孝之に対するプレイヤーたちの評価がナイーブすぎるという批判を何度となく書いてきた(例えば「『ヘタレ』と自己認識」)。そこでは、自分が虚構のキャラを選ぶゲームをやっているという事にすらプレイヤーたちが無自覚で、その結果援助交際をやっている人間がその相手にやめた方がいいと素で言うような恥知らずな行為を平気でやっていると述べた。ここでは、前提への無自覚さという観点で話を掘り下げてみたい。
さて、こういった厳しい批判を繰り返しているからといって、私はプレイヤーたちの人格否定をしているわけでは全くない。
むしろ実際に話してみると「いい人」かもしれないとさえ思う。
私が一連の記事言わんとしているのは、そういう認識がある領域(以上)に関しては何の保証にもならないということだ。
≠誰もが本当は腹黒い。「いい人」と「空気」、「いい人」の閉塞
話が飛躍するように聞こえるかもしれないが、ある集団にとっての「いい人」は、他の集団にとっての虐殺者であるかもしれない。
ユダヤ人の密告・虐殺、ルワンダの虐殺(SHOOTING DOGSの恐怖の演出)。カール・シュミット
「いい人」でいながらにして「極悪人」。両義性、勧善懲悪の問題点、そこから見えるもの
プロパガンダ、カウンタープロパガンダ
より善くあろうとすることがかえって事態を悪化させる逆説、根源的な未規定性
戦争での残虐行為を国家や政権だけのせいにするのはナイーブすぎ。ジュジク
逆に利で動くとっぽい人間の方が、逸脱しないことも
ただし、論理的である「のに」間違うのではなく、論理的である「からこそ」間違う事もあるのを理解してるか…カラマーゾフの兄弟の裁判
枠組みから外れた途端に不快感を垂れ流すことしかできない=枠組みの中だけ
「たかがエロゲー」確かに。しかしそれゆえに本性が露呈するとも言えるのでは?
まあこうなると「いい人」というカテゴリーの曖昧さ、いい加減さの問題と言った方がいいのだが、
なぜこんな話をするかというと、どうも「共感」できるということと「いい人」というのが近いものだと単純に考えられているように思うからだ。
もっとも、虐殺を命令・遂行するナチスの将校たちは
そういう人の方が相手の気持ちがわかるという曖昧な理由?
ある価値観に埋没する中で「いい人」と呼ばれる。「道徳」という名のローカル・ルール、地方言語
「共感」の 大澤真幸 東浩紀 『自由を考える』
相手の文脈で考えようとする行為なしには無理。自分の文脈を離れ、相手の状況を考慮しながら行動や思考をトレースし直す。
極めて意識的・思考的な営為。特にライフスタイルや価値観が多様化した今日、外国人だとか遠くに住んでいなくても、隣人からして。
「空気」を読むことに窮々としている人たちには無理ってことですよ。背景に決して意識が及ばない。表層に振り回されるだけ。
つまり「共感」に必要とされる思考のプロセスは、前提に立ち返った上であえて選び直すという再帰的思考と近いものがある。
さて、ではプレイヤーたちはそのような思考ができているのだろうか?
再帰的思考×。共感も×。彼らは自分の基準の中でおそらく快・不快の話をしているだけだ。ゆえに環境などを含めた相手の前提に立ち返って思考・行動を考える「共感」を、自然な「共感」などという物言いは逆効果。
ローティ的なリベラルアイロニズム。もっとも、快を求めるという私的行為がノイズ耐性を下げ共生の基盤を切り崩してしまうのなら
明確に切り分けることは不可能
レッシグの自由、アーキテクチャに関する考え方
再帰的思考ができない。
この価値観の多様化した社会では排除を強化するだけで終わる。
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余談だが、この記事に見られるような反応のあり方については、「ナショナリズムのゆくえ」という
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