君が望む永遠:「ヘタレ」と自己認識

2010-07-06 18:19:20 | 君が望む永遠
君が望む永遠(以下「君望」)の主人公は、非常に多くのレビューで「ヘタレ」と評価されている。これまで私は、その評価があまりに抽象的かつ浅薄だと批判的に書く一方で、そう評価される原因については様々分析してきた。その中で、

(1)選択肢を選んでいるのに主人公の行動に反映されにくい不快感(インタラクティブ性の低さによる苛立ち・不全感)
(2)ありえない行動・シナリオを選んだのはプレイヤー自身であるという共犯関係の忘却
(3)上の二つと関連して問題を作中人物(キャラ)にのみ帰属させる思考様式

といったことなどを指摘した。これは、「具体性がなさすぎる」「ちゃんと読みこんだとは思えない」といった「外側」からの批判が議論の深化に役立たなそうであり、またそれゆえに説得的ではないため、評価の「内側」に入り込んでそこから分析・解体するというアプローチに切り替えた成果だととりあえずは言えるだろう。これらの分析を通じて「ヘタレ」という評価の必然性は一部明らかになったわけだが、それによって私は「ヘタレ」なる評価が妥当だと思うようになったかと言えば、答えは完全に「否」である。今回は、その原因となっている根本的な問題について書いていこうと思う。


前述のように、「ヘタレ」という評価には奇妙に思えるほどに具体的理由が添えられていない(まるで、それが言うまでもないか、あるいは言及することすら不快であるかのように)。そのため多少の予測が入ってくるが、おそらくほぼ共通する理由は孝之がなかなか相手を選べないことにあるだろう。「事情があることはわかるけど、選ばないとどうしようもないんだから、うじうじ考えてばかりいずにいい加減きちんと選べよ」というわけだ。なるほど、そういう不快感が生じるのは理解できる。しかし、だ。もし事情があってもうじうじ考えてなかなか選べないことが「ヘタレ」であるなら、

実生活に直接関係のない虚構の人物の誰を選ぶか迷ったり、選ぶのに時間をかけたりする行為は一体どう位置付けられるのか。

つまり簡単に言えば、君望の主人公が「ヘタレ」であるなら、恋愛ADVをプレイすること、あるいはそのプレイヤーは一体どういう評価になるのか、ということだ。この問いを聞いて眉をひそめる人がいるかもしれないが、その反応は正しい。というのもこれは、「君望のプレイヤーにはそもそも主人公を批判する資格が無い」という悪質な批判封じになりうるからだ(だから今まで書かなかったわけだが)。それはあたかも「政治に文句があるなら自分でやれ」だとか、「(スポーツなどで)批判をするなら自分がそれより上手くやってみろよ」というような(ほとんどの場合)稚拙で悪質な物言いと同じであり、私の採るところではない。しかしそれでも、「ヘタレ」と評価するレビュワーたちのあまりの「屈託のなさ」は、この視点で一度たりとも考えたことがないと推測させるのに十分である。


と言っても、あまりピンとこない人がいるかもしれないのでこう考えてみてはどうだろうか?

援交してるヤツが援交の相手に「よくないから止めなさい」って言うのはどう思う?


一応、そういう言葉が出てくる背景を理解することはできる。自分では援助交際を悪いと思っているが(でも快感だから)やっているため、相手に「感情移入」すると、こんなことは止めた方がいいと言ってしまう…とまあそんなところか。しかし、それに対して浴びせかけられる言葉はこれだろう。

で、お前はなんやねん?

こうして、相手からは嘲笑されて終了となるわけだw君望の主人公を何の疑いもなく「ヘタレ」と評価するのは、これと同じくらい間抜けでイタい行為だと思うがどうだろうか?


などと言うと、おそらく「エロゲーをやってるからって一緒くたにするな」というような反発が予想される。確かに、恋愛ADVにディープにはまり込んでいるプレイヤーと、例えばたまたま友達から借りて恋愛ADVを初めてプレイしている人を同列に扱うのはいささか問題があるだろう。しかし、仮にディープユーザーではないにしても、「選べない主人公を『ヘタレ』と評価するなら、そもそも恋愛ADVをプレイする行為ってどうなんだろう?」という視点が出てくる妨げにはならない(この場合自己認識の問題ではないからだ)。にもかかわらず、そのような問題点を意識したレビューには一度もお目にかかったことがない。要するに、(少なくとも今まで見てきた数十のレビューに限って言えば)先に述べた根本的な問題を意識していた人は一人もいなかったということである。


では、プレイヤーは自らの行為を思い、主人公への不快感については口を噤むべきなのか?繰り返しになるが、そのような批判封じが私の目的ではない。例えば、主人公を「ヘタレ」と評価すると同時に「まあ恋愛ADVをプレイしてる俺が言うのもなんだけどねw」と自分をネタにするなら、理解はできるし筋は通っていると思う。また例えば、主人公が不快だと言った上でその原因をシステム的な問題も含めきっちり考察するのならそれもまた理解できる反応である。私が疑問なのは、選べないのを「ヘタレ」と当然のように断罪する一方で、自分が(実生活に影響しない)虚構の相手を選ぶのに迷ったり時間をかけたりする行為を(同時に)遂行していることについては全く何の批判的言辞が見られないのは一体どういうわけか?ということなのだ。もっとストレートな言い方をすると、ネタにする「余裕」をあっさり放棄するだけでなく、素で生み出された(=ベタな)言葉が単に感覚的・表面的なものであることは、

プレイヤーたちが対象を批判したりズラしたりすることはできても、その基盤も大したものではなく、さらには「自分はどうなのか?」という視点が完全に欠落している

ことを意味している(これは「恋愛ADVの主人公が鈍感な理由」の記事と繋がる)。


ここで「ネタ」と「ベタ」に絡めて視点を少し変えてみよう。そこまで興味が無いので調べてもいないが、恋愛ADVのプレイヤーにはKanonのような「泣きゲー」に素で感動する人と、それらを嘲笑したりネタとして消費したり(kanoso)する人の二種類が存在すると思っている人が多いのではないだろうか?まあ単純化すれば、「単純なヤツ・わかってないヤツ」と「わかってやってるヤツ」という二項対立的認識である(あくまで自己認識としてであって、外からは同じに見えるだろうが)。私自身は、そこまで明確に分けて考えてはいなかったが、自分が「この展開ありえねーわ」などと笑いながらプレイしていた人間なので、前者に対しては違和感を覚えるとともに、kanosoなどを楽しんでプレイしていた(=後者に近い立場だった)。しかし君望の主人公に対する評価を見る限り、そのような認識は改めなければならないだろう。というのは、恋愛ADVを何本もプレイし、普段は「こんな展開ありえねー」と突っ込みを入れたりネタにしている人たちもまた、ことごとく貧しい言葉を垂れ流すだけだったからだ。このことは、彼らがあえてやっているのではなくベタにネタをやっていることを示している(言葉はネタのように見えるけれども、ベタであるがゆえに余裕がなく、枠から外れた途端にヒステリックで貧しい言葉しか紡ぎだせない)。後者のような立場は「虚構と戯れる」などと評価されているが、むしろ「虚構に埋没している」と表現するのが正確であるように思える。つまり、存在しているのはベタと、ネタを装ったベタ(ベタなネタ)だけなのだ。


……とまあこんな具合で「ヘタレ」評価を批判したり解析したりしつつ今に到るわけだ。元々私はベタなプレイヤーについては批判的だったが(「白木屋談義」のコメントでも触れたが、「理論と違い感覚や感情は自由だ」なんて、勘違いも甚だしい)、後者もまた自分の脆弱さをネタでコーティングして自己防衛しているだけだ(=成長はありえない)とわかったので、その振舞を「掌の上の孫悟空」と揶揄するとともに、「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」を書くことになったわけだ(またそれゆえに、彼らに何らかの可能性があるかのような言説に与する気には到底なれない)。


またこのことからすれば、「共感」が大事とか言う前に、自己を把握する能力・意識の向上とか、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という(状況把握能力の欠落した笑ってしまうような)発言を人間はやってしまうものなのだと認識する(させる)ことが明らかに先ではないか。でなければ、自分の認識を相対化・客体化する志向性や機会すら持とうとせず、ゆえに「共感」は単なる排除を正当化するロジックにしかならないだろう。ま、別の言い方をすればたこ壺化という状況に「共感」というキーワードを放り込むと、ますますたこ壺化を促進しますよってことだ。

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