本文にある通り草稿第三弾。第一稿、第二稿の反省からまとめつつ抑えつつ書いた…つもりだったが、この分量ならやはり別枠にした方が望ましいと結論し、現行の内容となった。ただ、一稿、二稿の編集版という体裁のため目新しい情報はあまりないので、一応他と繋がる話をしておく。
この草稿を見れば、「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」を書いた背景がよりよく理解されると思われる。今までかなりの分量をエロゲーの記述に割いてきたが、それはエロゲーというジャンル自体が豊穣であることも、またそれをプレイする人間の目が肥えていることも意味しない。もし万一、一連のレビューがそのような誤解を生んだり、あまつさえエロゲープレイヤーの安易な自己正当化に使われなんかしてはかなわん(笑)、というわけで「エロゲーにも~」の記事を掲載したのである(その掲載が草稿を書いた時点よりもずっと後になった理由は前掲の記事の中で説明済み)。
なお、だいぶ前に俺は「オタク嫌い」と評されたことがあるが、それはかなりの部分が今回の一連の草稿に見られる要素に関係があると考えている(「『げんしけん』などへの嫌悪感」でも言及)。ただ、俺が(嫌うというより)苛立っているのは、(それを語る人によって内容が変わる)「オタク」という存在よりはむしろ、上辺だけのシニカルさでわかった気になっているような、荒廃した思考様式そのものである。それゆえ、もしそれに類するのなら、特に対象は限定されない。
それにしても、感情や感覚から完全に自由であることはできないのを前提に考えるのと、感覚や感情に居直るのが似て非なるものだと認識している人が少ないような気がする。その様を見ていると、感覚至上主義というか、枠組みへの埋没を連想せざるをえない(逆もまた然り→「論理至上主義の陥穽」)。自分の拠って立つ枠組みに埋没しない(距離をとる)というのもある種の「シニカルさ」だと思うが、もし文脈が簡単に忘れられて「ネタ→ベタ」といったスパイラルを繰り返すのが習いであるなら、それもまた致し方ないのかもしれない。
【君が望む永遠】
え~、ちなみにコレ3稿目ですw最初は草稿があまりに断片的だったので無視して書いてたら1600字くらいでまだ終わらず断念。気を取り直して草稿の話題に限定して書こうとしたらまた暴走し、2000字超えたところで打ち止め…てなわけで三度目の正直に挑みますw
今まで書いてきたレビューは、基本的に「孝之(主人公)に対する『ヘタレ』という評価の自明性を疑え」という方向性に則って書かれている。参照した数十のレビューには具体性が完全に欠落していたので、最初は具体例を挙げながら孝之を縛るものが何であったかを解説する手法をとったが、その無効性を感じてシステム的な問題を対話篇で語る方式に変更。最終的には一般的な論説の形式に戻し、サブキャラシナリオの位置付けも合わせて「白紙の主人公」とそれが享受する選択可能性への批判性が見られると論じ、「ヘタレ」評価はある意味で構造的必然だったと述べた。
詳しくは該当の記事を読んでもらうのが早いが、それを通じて俺が何を確認し、また提示しようとしたのかと聞かれれば、(少なくともレビューを拝見した)エロゲープレイヤーが虚構と「戯れ」てなどはおらず、むしろ虚構に「埋没」しているということだった。まず強調しておきたいが、これは「現実と虚構の区別がつかない」というのは違う。それではなくて、両者の区別をつけた上で、虚構に「埋没」しているわけである。
こういう話をすると、「現実を見ろ」という批判を想定する人もいるだろうが、そうではない(そもそも、自分が数百件にわたるゲームの記事を書いてるくせに上から目線でそのように言ってのけるのは、愚鈍で自己矛盾した態度だと言わざるをえない)。まず価値判断は置いておき、ともかく「自分はわかってやってる」という認識と、「彼らはわかってやってる」という他者の評価が妥当ではないことを明らかにしておきたいのだ(後者について言えば、批判へのカウンターといった戦略的な側面はあると思うが、いたずらに持ち上げるなということ)。
ただ、それは「シニカルになるな」という主張ではなく(むしろ一度徹底的にシニカルになった方がいいと思っているくらい)、「一見わかってやってるように見えるけど、実はちっともシニカルじゃないのでは?」という話なのだ。あるいはもしかすると、その「シニカルさ」は様々な試行錯誤や構築の上に到ったものではなく、単なるスタイルか、もしくは満たされぬ理想を防衛するための(本人も気づかない)カモフラージュにすぎないのではないか?そしてわかっているフリをしたコミュニケーションが連綿と続けられることで、かえって根源にあるものは脆弱なまま放置されているのではないか?
…一応そういう問題提起の土台として考えております。もちろん、様々な書き方をしているとはいえエロゲープレイヤー数十名のレビュー見た程度でそこまで一般化できんのか?という疑問は至極もっともで、これから具体的に色々範囲を拡大していければとは思っている。ただ少なくとも、「ネタ→ベタ」という流れ、つまり自らが拠って立つ枠組みは自明のものとしてその中で論理を振りかざして時には感情を露にしてカタルシスを覚える…というのはどうももっとずっと一般的な思考・行動様式であるように思えるのよねえ。「わかってやってる」と口で言うことは誰でもできることだしね。まあだから不快感を端緒にそれを成立せしめているものが何なのか考えてみたら?と言ったりしているわけだけど。そしたら柔軟に生きているつもりの自分がおそろしく保守的な思想に縛られていることに気付くかもしれんぜ、とかまあそういう感じで(もちろん、「保守=悪」でないことに注意を要するが)。てゆうか、それをやらずして「自由」なんてありえんのかね?感覚は理論から自由な領域だ、なんてのは感覚の拠り所について少しも考たことのない人間のナイーブな発言にしか聞こえないんだが。本当に「わかってる」って言うんなら、それぐらいやったらどうなん?それがいやなら、「何もわかりません。とりあえず感覚に従っているだけです」と言えばいいのに。まあそう言いたくないから斜に構えたフリをするんだろうけど。んで結論。一般に言われるシニカルさ、少なくともエロゲーマーのそれは全く信用するに値しない。以上。
この草稿を見れば、「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」を書いた背景がよりよく理解されると思われる。今までかなりの分量をエロゲーの記述に割いてきたが、それはエロゲーというジャンル自体が豊穣であることも、またそれをプレイする人間の目が肥えていることも意味しない。もし万一、一連のレビューがそのような誤解を生んだり、あまつさえエロゲープレイヤーの安易な自己正当化に使われなんかしてはかなわん(笑)、というわけで「エロゲーにも~」の記事を掲載したのである(その掲載が草稿を書いた時点よりもずっと後になった理由は前掲の記事の中で説明済み)。
なお、だいぶ前に俺は「オタク嫌い」と評されたことがあるが、それはかなりの部分が今回の一連の草稿に見られる要素に関係があると考えている(「『げんしけん』などへの嫌悪感」でも言及)。ただ、俺が(嫌うというより)苛立っているのは、(それを語る人によって内容が変わる)「オタク」という存在よりはむしろ、上辺だけのシニカルさでわかった気になっているような、荒廃した思考様式そのものである。それゆえ、もしそれに類するのなら、特に対象は限定されない。
それにしても、感情や感覚から完全に自由であることはできないのを前提に考えるのと、感覚や感情に居直るのが似て非なるものだと認識している人が少ないような気がする。その様を見ていると、感覚至上主義というか、枠組みへの埋没を連想せざるをえない(逆もまた然り→「論理至上主義の陥穽」)。自分の拠って立つ枠組みに埋没しない(距離をとる)というのもある種の「シニカルさ」だと思うが、もし文脈が簡単に忘れられて「ネタ→ベタ」といったスパイラルを繰り返すのが習いであるなら、それもまた致し方ないのかもしれない。
【君が望む永遠】
え~、ちなみにコレ3稿目ですw最初は草稿があまりに断片的だったので無視して書いてたら1600字くらいでまだ終わらず断念。気を取り直して草稿の話題に限定して書こうとしたらまた暴走し、2000字超えたところで打ち止め…てなわけで三度目の正直に挑みますw
今まで書いてきたレビューは、基本的に「孝之(主人公)に対する『ヘタレ』という評価の自明性を疑え」という方向性に則って書かれている。参照した数十のレビューには具体性が完全に欠落していたので、最初は具体例を挙げながら孝之を縛るものが何であったかを解説する手法をとったが、その無効性を感じてシステム的な問題を対話篇で語る方式に変更。最終的には一般的な論説の形式に戻し、サブキャラシナリオの位置付けも合わせて「白紙の主人公」とそれが享受する選択可能性への批判性が見られると論じ、「ヘタレ」評価はある意味で構造的必然だったと述べた。
詳しくは該当の記事を読んでもらうのが早いが、それを通じて俺が何を確認し、また提示しようとしたのかと聞かれれば、(少なくともレビューを拝見した)エロゲープレイヤーが虚構と「戯れ」てなどはおらず、むしろ虚構に「埋没」しているということだった。まず強調しておきたいが、これは「現実と虚構の区別がつかない」というのは違う。それではなくて、両者の区別をつけた上で、虚構に「埋没」しているわけである。
こういう話をすると、「現実を見ろ」という批判を想定する人もいるだろうが、そうではない(そもそも、自分が数百件にわたるゲームの記事を書いてるくせに上から目線でそのように言ってのけるのは、愚鈍で自己矛盾した態度だと言わざるをえない)。まず価値判断は置いておき、ともかく「自分はわかってやってる」という認識と、「彼らはわかってやってる」という他者の評価が妥当ではないことを明らかにしておきたいのだ(後者について言えば、批判へのカウンターといった戦略的な側面はあると思うが、いたずらに持ち上げるなということ)。
ただ、それは「シニカルになるな」という主張ではなく(むしろ一度徹底的にシニカルになった方がいいと思っているくらい)、「一見わかってやってるように見えるけど、実はちっともシニカルじゃないのでは?」という話なのだ。あるいはもしかすると、その「シニカルさ」は様々な試行錯誤や構築の上に到ったものではなく、単なるスタイルか、もしくは満たされぬ理想を防衛するための(本人も気づかない)カモフラージュにすぎないのではないか?そしてわかっているフリをしたコミュニケーションが連綿と続けられることで、かえって根源にあるものは脆弱なまま放置されているのではないか?
…一応そういう問題提起の土台として考えております。もちろん、様々な書き方をしているとはいえエロゲープレイヤー数十名のレビュー見た程度でそこまで一般化できんのか?という疑問は至極もっともで、これから具体的に色々範囲を拡大していければとは思っている。ただ少なくとも、「ネタ→ベタ」という流れ、つまり自らが拠って立つ枠組みは自明のものとしてその中で論理を振りかざして時には感情を露にしてカタルシスを覚える…というのはどうももっとずっと一般的な思考・行動様式であるように思えるのよねえ。「わかってやってる」と口で言うことは誰でもできることだしね。まあだから不快感を端緒にそれを成立せしめているものが何なのか考えてみたら?と言ったりしているわけだけど。そしたら柔軟に生きているつもりの自分がおそろしく保守的な思想に縛られていることに気付くかもしれんぜ、とかまあそういう感じで(もちろん、「保守=悪」でないことに注意を要するが)。てゆうか、それをやらずして「自由」なんてありえんのかね?感覚は理論から自由な領域だ、なんてのは感覚の拠り所について少しも考たことのない人間のナイーブな発言にしか聞こえないんだが。本当に「わかってる」って言うんなら、それぐらいやったらどうなん?それがいやなら、「何もわかりません。とりあえず感覚に従っているだけです」と言えばいいのに。まあそう言いたくないから斜に構えたフリをするんだろうけど。んで結論。一般に言われるシニカルさ、少なくともエロゲーマーのそれは全く信用するに値しない。以上。
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