「君が望む永遠」については、「なぜ主人公の鳴海孝之は『ヘタレ』として拒絶されるのか?」という受容分析を主に行ってきた。その成果が「『ヘタレ』と自己認識」、「鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」、「サブキャラシナリオの評価をめぐって」、「サブキャラシナリオの批判性」などであるが、要約すれば、「鳴海孝之をベタに(=素で)批判することは、自分が虚構のキャラを選ぶ恋愛ADVをプレイしていることを完全に忘却したバカげた行為だ」ということ、そして「少なくとも君が望む永遠のレビュワーに関する限り、そのことを誰一人として自覚していなかった」ということになる。そこから話を一般化し、ネタでやっているという人たちのほとんどは、本質的には何も理解しておらず、ただ「わかってやっている」というエクスキュースのもとに埋没しているだけではないかと主張したが、このあたりは例えば「じゃあ結局彼らは虚構と現実を混同しているのか」といったとんでもない誤解を招来する可能性があるので、補助線を引いて理解の一助としたい。
斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』という本をご存じだろうか?詳しい内容紹介は省くが、そこでは「オタク」の特徴の一つとして「多重見当識」が挙げられている(ただ、著者は「オタク」という枠組みの決め難さを強調しているし、実際「オタク」たちとのやり取りを掲載するという形式を取ることによって、そのカテゴリーがあくまで個々の認識のおぼろげな集合体にすぎないことを表現している点には注意を要するのだが)。簡単に言えばそれは、アニメなどのキャラで「抜き」つつ、かといってその世界に没入することなく突き放して分析したり、色々組み合わせてネタにしたりすることもできるという彼らの在り方を指している。そして、あくまである「オタク」の一意見としてではあるが、原作の過剰な遵守やキャラへの過度の思い入れは、むしろ退けられるもの(レアケース)として書かれている。こういう様はまさに(著者は使っていないが)「虚構との戯れ」と表現するにふさわしい。逆に言えば、このような視点がないと、例えば「ドラ外伝」のような「ドラえもん」と「北斗の拳」を組み合わせるというあからさまなネタ動画を見て、「この動画は親への反抗心を象徴している」というようなズレた分析をすることになるだろう(まあそれはさすがに極端な例だがwちなみにそのようなネタ、あるいはパーツの組み合わせ=ガラパゴス的性格を考慮するがゆえに、前掲「サブキャラシナリオの批判性」でサブキャラシナリオに含まれる強烈なアイロニーが計算づくのものか判断しがたいと述べ、また「灰羽連盟」再考記事の始めに「全てが作者の計算づくであったとは考えていない」とわざわざ断りを入れている)。
とはいえ、このような見解には即座に反論できる。例えば、キャラへの過度の思い入れと対照的なものとして「キャラへの距離感の維持」を「オタク」の要件として措定するとしたら、話題に上がっているアニメのキャラで「抜ける」のと「抜けない」のではどちらが距離感があると言えるのか?またそう言える根拠は何なのか?いやそもそも「抜ける」「抜けない」の二項対立的区分が問題で、アニメで「抜けない」という事情はおそらく以下のように多様であると想像される。
1.そもそも何も感じない
2.そのキャラを汚したくない
3.虚構の存在でそういう行為をすることに抵抗を覚える
という具合で、それを一緒くたにするのは果たして妥当なのか否か。一般人云々とか抽象的な話をしても不毛なので問題を限定すると、例えば大塚英志は、吾妻ひでおの作品が最初ネタとして受容されたが、それでベタに抜ける人間が出てきた、という話を書いていたと記憶している(これは後日調べ直す必要あり)。では、最初はそれがネタであって「抜く」ことなど思いもよらなかった人よりも、新しく出てきた(?)「抜く」ことができる人間の方がより「オタク」に近いのだろうか?また近いのであれば、そう言いうる根拠は何なのだろうか?云々。
とまあウザい感じになるのでここいらでやめておくが、要するに私が言いたいのは、(偉そうな表現を用いれば)「オタク」というカテゴリーはしょせん文脈依存的なものにすぎず、各々がローカルな認識でもって真理を僭称しているだけ、ということだ(端的に言えばローティ―的な視点。暇なら"unskilled writers”や友人のブログにおける定義に関する話も参照)。つまり、いくら論理をもって構築しようと、そこに見えるのは自慰識でしかない。今日では、前に取り上げた「ねとすたシリアス」でも言われているように、もはや「オタク」は「普通とはちょっとズレた人」程度のニュアンスを持つタグとしてさえ使われるようになっているとのことだが、それは既述の状況が前景化しただけでしかないではないだろうか。ゆえに、それをもってたとえば「オタクは死んだ」などと評するのは不正確で、単に「自分が思っていたオタク像に合う人間がいなくなったor一般的でなくなった」と言うのが正確なところであろうと、私には思えるのである。もし昔はそのような人物像が夢想できたのだとしても、それはムラ社会と同じで単に閉じた世界ゆえ差異が見えにくかっただけだと推測される。たとえば受容できる作品が限られていれば、見るものも似通ってくるわけで、自然と話は通じやすくなるし価値観も近いものになりやすいだろう。またコミュニティが狭いがゆえの同調圧力、というのは言いすぎにしても同一化傾向が生じたのではないか。しかし、作品数が増えて自分が見たいものだけ見ていても充足することが可能になった時、人は各々の嗜好へと走り、受容層自体が増えたこともあって受け手のあり様は自然に多様化する。単にそれだけのことだ(前に書いた虚淵玄の錯誤は、まさにそのような状況の変化への鈍感さに由来している)。
以上のように、繰り返しになるが、「オタク」なるものは、あるいはその定義は、しょせん時代的・状況的必然性によって構築されたものにすぎず、変化するのが当然なのである。それを何らかの一般性があるもののように見なすのは、好色な人間が「人はみな好色なのだ」と考えるのに似ている。そのような見地に立てば、もはや今日「オタク」なるカテゴリーに拘泥することは、社会からのスティグマに対する戦略的な発言としてならともかく、端的に趣味の問題であると結論できる。
さて、ここで読者は「もし筆者が本当にそれが無意味だと考えているなら、なぜこうも長々と語るのか?」と疑問に思うかもしれない。確かに、ここには言行の不一致が見られるが、それは君が望む永遠にまつわる批判が、たとえば「自分を『エリートオタク』と妄信する人間が『ダメオタク』を批判する」ものと見なされ、その結果内輪の問題として無害化・風景化されてしまう危険を回避するためだ(前掲の「『ヘタレ』と自己認識」を見れば明らかなように、問題は評者たちの単純な論理破綻とそれへの無自覚さにあり、それは国家システムの恩恵を受けながらただ国家の幻想性を説いたり、科学技術な恩恵を受けながらナイーブな近代文明批判をする行為に通じる。これらは、自明性への埋没によって生じる喜劇だ)。そのような準備として理解してもらえれば幸いである。
さて、かなり迂回はしたが、君が望む永遠の主人公に対するナイーブな反発が指し示すものを話す準備は整ったように思う。次回はkanonやネタに対する親和性、共犯関係などをキーワードに、論を進めていくことにしたい。
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