「魔法少女まどか☆マギカ」と「沙耶の唄」:異物の描き方

2011-07-03 12:23:00 | 沙耶の唄

さて、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」から「エンディングの『失敗』2」にかけて沙耶の描き方&受け取られ方に焦点を絞って論じてきた。

 

これらを読んだ人の中には「作者の意図が挫折するのは必然だったと言うけど、じゃあどんな描き方が望ましかったわけ?」と疑問に思った人がいるかもしれないが、それに対しては即座に「魔法少女まどか☆マギカ」のインキュベーターだと答えるだろう。「キュゥべえ」が傷ついた姿で現れた時、その見た目や「お約束」もあってインキュベーターを「善」、追う側の少女を「悪」という構図で捉えた人も多かったのではないだろうか?まあそこまで極端でなくても、何か事情があっていがみあっているだけで、インキュベーターの側にこそ問題があるのだ、とは思わなかっただろう。

 

しかしながら、原作を見た人には周知のように、この認識は反転させられる。詳述は避けるが、ここでは「萌え」が逆用されているわけだ(これは巴マミを*した怪物にも同じことが言える。より正確には、ここから一気にムードが反転するのだが)。しかも、インキュベーターへの「感情移入」のフックを意図的かつ徹底的に奪うという念の入り様だ。具体的には、ガラス玉≒カメラのような眼を繰り返し描いたり(「二項対立と交換可能性」と対照的)、人間の苦悩や苦悶に対して「大きな繁栄の前には小さな犠牲は仕方がない」的なことを言わせてみたり、インキュベーターの星については全く描かなかったりetc...しかも、どれだけ交換可能なインキュベーターを憎み、殴り、殺したところで、大元のシステムはビクともしない(=トカゲのしっぽ切り)という仕組みになっており、むしろ今述べた行為がガス抜きの役割を果たしてシステムはより確実に温存されうる・・・という念の入り様だ(「君が望む永遠:鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」も参照。まあシステムにそのまま敗北する内容はさすがにエンターテイメント的としては問題だってことで、最後は情念が打ち勝つように作られているわけだが、現実で考えた場合は社会システムへの属人的な理解や「運動のための運動」など結構シビアな問題をはらんでいる)。

 

地球を利用することも含めインキュベーターと沙耶との共通点は多数あるのだが、その描き方は極めて対照的であることが理解されるだろう。つまり、その存在を異物として描きたいのなら、インキュベーターのそれが正解なわけだ(「泣きゲーへのアイロニー?」も参照)。まあもっとも、その場合沙耶の唄は受け手の感情的安全を脅かさない極めて凡庸な作品として終わっていただろうが(「作者のナイーブな期待と認識」で述べた「風景の狂気」の話を参照)。 


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