■「キャリー/Carrie」(2013年・アメリカ)
監督=キンバリー・ピアース
主演=クロエ・グレース・モレッツ ジュリアン・ムーア
"リブート"の名の下で過去の作品のリメイクが相次ぐハリウッド映画。ブライアン・デ・パルマ監督の名作ホラー青春映画を、クロエ・グレース・モレッツで撮る・・・とニュースを聞いたとき、「モールス」の次がこれかよ、再び血まみれになるのかぁ・・・と、おじさんはクロエたんをかわいそうに思った。デ・パルマ版はテレビの映画番組で高校時代に観たっけ。タイトルロールのシシー・スペイセクと母親役のパイパー・ローリーは、まさに鬼気迫る熱演だった。それにウィリアム・カットにジョン・トラボルタなどなど、この後ブレイクすることになる若手スタアが出演してそれも映画ファンとしては嬉しかった。70年代、80年代に多数映画化されたスティーブン・キング原作らしく、重く心理的に迫る恐怖感がある映画だった。プロムの大惨劇シーンもすごいけど、なによりもトラウマになったのは、エイミー・アービングが絶叫するラストシーン。あれはどうなるのだろう・・・と、どうしても僕ら世代はストーリーに関して情報がありすぎる。どうしても比べてしまう。そこを抜きに"リブート"作品を観ることができるのか。おまけに「映画秘宝」誌は、豚の血をかぶってもきゃわゆいクロエたん・・・とアイドル映画視。えーっ?。
近頃は吸血鬼ものですら青春ロマンスにしちまうハリウッドだから、いわゆる学園もの青春映画的な仕上がり?と思ったらまさにそれ。スティーブン・キングの重みはどこへ?と思えるくらいに全体的にかなり軽い印象。どうせアイドル映画化しちゃうんなら、彼氏をキャリーに譲るスー役(オリジナル版はエイミー・アービング)をエル・ファニング嬢あたりにするといいのに・・・とあれこれ考える。いかんいかん。スクリーンに向かってて雑念が。映画冒頭、キャリーがシャワー室で受けるいじめが物語の発端。ネットいじめにまで発展するのは現代らしい味付けで、悪意と陰湿さが増している。いじめた女の子たち、一緒になってキャリーを気味悪がる男子たちの区別がとてもわかりやすい。その罰として体育教師が科した長距離走に一人反抗するのがいいお家柄のわがまま少女一人(オリジナル版はナンシー・アレン)、みんながプロムの準備をしている中に参加しない者と参加できない者がいる。各場面場面でのグループ分けがはっきりしている。"大人数のグループとそれに加われない孤立者"という構図が、それぞれの孤独感を観客にわかりやすく示している。
この映画で怖い存在は何よりもジュリアン・ムーア演ずる母親だろう。彼女が何故世間を嫌うのか、男性を嫌うのか、宗教に過剰に傾倒するのかが描かれていて、単に主人公を抑圧する怖い存在というものではない。彼女も社会というグループに加われない孤立者である。映画冒頭の一人出産の場面、自傷行為のシーンで世の中に対する母親の苛立ちが鮮烈に描かれる。その母親に「みんなと同じでいたい。」と必死で訴えるキャリーが、見ていて切ない。そしてクライマックス、プロムの大惨劇は現代ハリウッドの特撮技術だけにド迫力。結局キャリーの理解者になろうとしたのはスーだけだった。その結末は変わらない。オリジナル版の衝撃のラストシーンは、映画史に残る忘れられない名場面。あの墓場から飛び出した手がキャリーのある意味で現世への執着だと考えるなら、リメイク版のラストはキャリーがすべてを拒絶してしまったかのように感じられる。だが、キャリーは崩れゆく家からスーを吹っ飛ばしながらも、その着地はふんわりとしていた。それは直前にキャリーがスーに対して気付いたあることへの配慮。キャリーは決してすべてを呪って死んでいったのではなかったのだ。エンドクレジットで流れるかるーいロックが今ドキ学園ドラマぽくて、スティーブン・キングの重厚さを消し去っているのが違和感。でもスティーブン・キングの名に重い価値を感じるのは、やっぱり僕ら世代なんだろうね。