今年の2月に天竜二俣町の「鳥羽山城」が浜松指定史跡となったのを記念した見学会に参加する。
戦国時代の山城は土がむき出しだったのが、安土桃山以降、石垣が多用されていく。
自然石をそのまま積んでいく「野面(ノヅラ)積み」が見られる。
大きな石どうしの隙間に丸石(間詰め石)を配置し、それがアクセントにもなっている。

近世になってからの石垣は人工的な技術革新が飛躍していくが、そこへの移行形態が見られるのが見所というわけだ。
岩盤はそのまま使うなど自然の地形に合わせて石を積んでいるのも見られた。

大手門への道は幅6mという当時としては破格の広さでしかも真直ぐなのは、安土城と同じように、石垣と本丸の堂々たる権威が、登城するものを圧倒する効果をねらっているという。

上の石垣には石灰岩を多用することで、下から見ると白い石垣が目立つ工夫がされている(鉢巻石垣) 。
下の石垣は「腰巻石垣」があり、遠くからは2段の石垣が見えたという。

「本丸」隣には、枯山水の庭石も発掘されており、対岸の「二俣城」の実戦的軍事的機能からこの鳥羽山城は政治・外交的城郭への転換を示す典型が認められるという。

「鳥羽山城」は、1560年代の「桶狭間の戦い」のころ築城され、しばらく武田・徳川の攻防があり、家康の関東転封後、豊臣系の堀尾氏によって近世的改築がなされた。
こうして、西国の安土桃山様式の築城が東海にも出現していくわけだ。
こうした視点から山城を見てみると納得がいく。
石垣そのものにも深い意味があることを発見できたのがうれしい。
戦国時代の山城は土がむき出しだったのが、安土桃山以降、石垣が多用されていく。
自然石をそのまま積んでいく「野面(ノヅラ)積み」が見られる。
大きな石どうしの隙間に丸石(間詰め石)を配置し、それがアクセントにもなっている。

近世になってからの石垣は人工的な技術革新が飛躍していくが、そこへの移行形態が見られるのが見所というわけだ。
岩盤はそのまま使うなど自然の地形に合わせて石を積んでいるのも見られた。

大手門への道は幅6mという当時としては破格の広さでしかも真直ぐなのは、安土城と同じように、石垣と本丸の堂々たる権威が、登城するものを圧倒する効果をねらっているという。

上の石垣には石灰岩を多用することで、下から見ると白い石垣が目立つ工夫がされている(鉢巻石垣) 。
下の石垣は「腰巻石垣」があり、遠くからは2段の石垣が見えたという。

「本丸」隣には、枯山水の庭石も発掘されており、対岸の「二俣城」の実戦的軍事的機能からこの鳥羽山城は政治・外交的城郭への転換を示す典型が認められるという。

「鳥羽山城」は、1560年代の「桶狭間の戦い」のころ築城され、しばらく武田・徳川の攻防があり、家康の関東転封後、豊臣系の堀尾氏によって近世的改築がなされた。
こうして、西国の安土桃山様式の築城が東海にも出現していくわけだ。
こうした視点から山城を見てみると納得がいく。
石垣そのものにも深い意味があることを発見できたのがうれしい。