町を歩くと、春は花や若芽が気になるが冬は石造物が気になる。
このところ、「供養塔」に出会うことが多くなってきた。
はじめは何のための供養かがわからなかったが、これは「巡礼供養塔」であるのがわかってきた。
むかし庄屋らしき門前には、文久元年(1861年)銘があり、「天下泰平・国土安穏」と彫られた「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」と刻まれている石塔があった。
観世音菩薩は33の姿に変化して民衆を救うということから、坂東・秩父・西国では33の観音霊場(約1000km)が設定される。(四国は88箇所)
江戸時代に興隆したこの巡礼は参拝が成就されるとその証として地元に「供養塔」が建立される。
その門前から5分ほどの所には、観音像のある「西国供養塔」(天保14年・1843年)があった。
観音像が彫られている供養塔は初めて見る。
ここにも、「天下泰平・国土安穏」と刻印され、わきに、「秩父・坂東」と書かれている。
どうやら、村落毎に代表を「講」組織が派遣する仕組みがあったようだ。
さらには、シュロに囲まれた立派な「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」(天保9年・1838年)も発見した。
ここは、「江戸・大山」道への旅路の分岐点らしく、大きさも飾りも立派なものだった。
右面には「湯殿山・羽黒山・月山」も刻印されているので、修験道の白装束の人も通ったのかもしれない。
旅人は命がけでもあったので、供養塔はその旅の無事を祈願する意味もあったに違いない。
同時に、自由ではなかった旅行が信仰の名の下でできたメリットも大きい。
最後に見たのは、「四国・西国・秩父・坂東」の銘のある供養塔だった。
これは大正11年(1921年)建立のいちばん新しいものだ。
集落はこのころまで存立していたのが類推できる。
むしろ現代のほうが集落の維持といい、コミュニティーが崩壊しているわけだから、歴史の進歩・発展とは微妙なものだ。
巡礼供養塔はそんな村落共同体の絆を表現しているのかもしれない。
このところ、「供養塔」に出会うことが多くなってきた。
はじめは何のための供養かがわからなかったが、これは「巡礼供養塔」であるのがわかってきた。
むかし庄屋らしき門前には、文久元年(1861年)銘があり、「天下泰平・国土安穏」と彫られた「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」と刻まれている石塔があった。
観世音菩薩は33の姿に変化して民衆を救うということから、坂東・秩父・西国では33の観音霊場(約1000km)が設定される。(四国は88箇所)
江戸時代に興隆したこの巡礼は参拝が成就されるとその証として地元に「供養塔」が建立される。
その門前から5分ほどの所には、観音像のある「西国供養塔」(天保14年・1843年)があった。
観音像が彫られている供養塔は初めて見る。
ここにも、「天下泰平・国土安穏」と刻印され、わきに、「秩父・坂東」と書かれている。
どうやら、村落毎に代表を「講」組織が派遣する仕組みがあったようだ。
さらには、シュロに囲まれた立派な「四国・西国・秩父・坂東・供養塔」(天保9年・1838年)も発見した。
ここは、「江戸・大山」道への旅路の分岐点らしく、大きさも飾りも立派なものだった。
右面には「湯殿山・羽黒山・月山」も刻印されているので、修験道の白装束の人も通ったのかもしれない。
旅人は命がけでもあったので、供養塔はその旅の無事を祈願する意味もあったに違いない。
同時に、自由ではなかった旅行が信仰の名の下でできたメリットも大きい。
最後に見たのは、「四国・西国・秩父・坂東」の銘のある供養塔だった。
これは大正11年(1921年)建立のいちばん新しいものだ。
集落はこのころまで存立していたのが類推できる。
むしろ現代のほうが集落の維持といい、コミュニティーが崩壊しているわけだから、歴史の進歩・発展とは微妙なものだ。
巡礼供養塔はそんな村落共同体の絆を表現しているのかもしれない。