昨日4月1日は、高橋氏と一緒にまたしても足利市西部地区へ石仏巡りに出かけた。朝一番で訪れた徳蔵寺さんは、住職不在で目的が達せられなかったり、両毛線の富田駅の事前確認をしたりして少々時間をロスしてしまったが、大前町の日蓮宗・妙隆寺さんでは思わぬ以上の庚申塔などの収穫があり、二人で思わず笑ってしまいました。その後、お昼には少しばかり早いが、ここで食事を取らないと昼食抜きになってしまうとばかりに、三崎神社の芝生に座ってお花見をかねたランチタイムとしました。
その後は、自性院の墓地やら自性院境内、そして道沿いの碑塔を調べながら北上して、大前町と松田町の境にある庚申塔を調査。私が記録を取っている間に高橋氏は近くのお墓を覗きに行って、面白い自然石石塔を見つけてくる。そして誘われるまま二人で銘文を解読していると、その隣に板碑型文字塔がある。どうせ、墓碑だろうと思いつつもついでに見てみると、その下部から三猿が現れた。色めき立って高橋氏が紀年銘を水洗いすれば、そこには延宝八年銘と共に庚申銘文が現れた。「ヤッタ~」、暫くぶりの大収穫である。もちろんこの延宝庚申塔は私達が初めてその存在を公にすることになる。しかし、銘文を解読するに従い、そこには私達を悩ませる文字が出てきた。「奉納■申二世爲安樂」中の■文字が「向」字にも、「曰」文字にも読めてしまうのである。いずれにせよ、このような庚申銘文には、これまで出会ったことがないので何度も水洗いを繰り返しながら解読努力をするも、私達の解読能力では結論が出ず仕舞いであった。「仕方がない、これは今月22日に当地へ来られる多摩石仏の会の皆様に判断を仰ぐことにしよう」として、次へ進む。
そうそう、その前に入東の庚申山へ立ち寄って、高橋氏にそこが「多摩石仏の会」の皆様を案内する場所に相応しいかを判断してもらったついでに、薬師堂を案内する。と、そこには今迄気づかなかった邪鬼に乗る石像を発見。これも面白いので、多摩石の皆様にお見せすることに決定する。
さて、途中車を走らせて路傍に見た庚申塔は見逃し、それからは私が入りたかった松田町不入地区へと向かう。そしてこの不入地区にて沢山の庚申塔などに出会うことが出来た。あまりに沢山ありすぎて、手元に持参した石仏調査原簿が足りなくなり、車へ戻って予備用紙を持って来る程であった。特にこの不入地区にて、庚申名数塔に三基も出会えたのは予想以上の収穫であった。そして時計を見れば既に三時半を過ぎている。どうやら今回も、この辺で石仏巡りは終わりを迎えたようである。帰路は、松田町から山越えの馬打峠を経て月谷町へ抜け、そこから佐野へと向かって帰路に就く。
それにしても今日も実に良く調べたものだ!。帰宅してから調査碑塔を数えてみれば65基にもなっていた。これも、私一人なら途中でサボってしまうが、高橋氏は至ってまじめで、少しの時間でも大切にして調査に当たろうとする熱意から生まれたものと感謝する。朝、家を出るときは「今日はお花見」、そのついでに石仏巡りのような気持ちでいたが、生憎と桜はまだ咲き出したばかりなので、このお花見は来週に持ち越しとなった。
なお、HPへの紹介は今回は少々遅くなります。何しろ数がありすぎるので、その画像処理と調査碑塔の清書・確認などに時間が取られるからです。
その後は、自性院の墓地やら自性院境内、そして道沿いの碑塔を調べながら北上して、大前町と松田町の境にある庚申塔を調査。私が記録を取っている間に高橋氏は近くのお墓を覗きに行って、面白い自然石石塔を見つけてくる。そして誘われるまま二人で銘文を解読していると、その隣に板碑型文字塔がある。どうせ、墓碑だろうと思いつつもついでに見てみると、その下部から三猿が現れた。色めき立って高橋氏が紀年銘を水洗いすれば、そこには延宝八年銘と共に庚申銘文が現れた。「ヤッタ~」、暫くぶりの大収穫である。もちろんこの延宝庚申塔は私達が初めてその存在を公にすることになる。しかし、銘文を解読するに従い、そこには私達を悩ませる文字が出てきた。「奉納■申二世爲安樂」中の■文字が「向」字にも、「曰」文字にも読めてしまうのである。いずれにせよ、このような庚申銘文には、これまで出会ったことがないので何度も水洗いを繰り返しながら解読努力をするも、私達の解読能力では結論が出ず仕舞いであった。「仕方がない、これは今月22日に当地へ来られる多摩石仏の会の皆様に判断を仰ぐことにしよう」として、次へ進む。
そうそう、その前に入東の庚申山へ立ち寄って、高橋氏にそこが「多摩石仏の会」の皆様を案内する場所に相応しいかを判断してもらったついでに、薬師堂を案内する。と、そこには今迄気づかなかった邪鬼に乗る石像を発見。これも面白いので、多摩石の皆様にお見せすることに決定する。
さて、途中車を走らせて路傍に見た庚申塔は見逃し、それからは私が入りたかった松田町不入地区へと向かう。そしてこの不入地区にて沢山の庚申塔などに出会うことが出来た。あまりに沢山ありすぎて、手元に持参した石仏調査原簿が足りなくなり、車へ戻って予備用紙を持って来る程であった。特にこの不入地区にて、庚申名数塔に三基も出会えたのは予想以上の収穫であった。そして時計を見れば既に三時半を過ぎている。どうやら今回も、この辺で石仏巡りは終わりを迎えたようである。帰路は、松田町から山越えの馬打峠を経て月谷町へ抜け、そこから佐野へと向かって帰路に就く。
それにしても今日も実に良く調べたものだ!。帰宅してから調査碑塔を数えてみれば65基にもなっていた。これも、私一人なら途中でサボってしまうが、高橋氏は至ってまじめで、少しの時間でも大切にして調査に当たろうとする熱意から生まれたものと感謝する。朝、家を出るときは「今日はお花見」、そのついでに石仏巡りのような気持ちでいたが、生憎と桜はまだ咲き出したばかりなので、このお花見は来週に持ち越しとなった。
なお、HPへの紹介は今回は少々遅くなります。何しろ数がありすぎるので、その画像処理と調査碑塔の清書・確認などに時間が取られるからです。