※この頃、文章がだらだらと長く、申し訳ないと思っています。何か、別の書き方を考えます。
4月最後の石仏巡り
昨日4月29日から、いよいよ今年最大の大型連休の開始である。そして毎年の事ながら、私といえばこの期間中はいつもの石仏巡りとは異なり、栃木県内のあちこちをさまよい歩くことになっている。
その例に漏れず、今回の初日もいつもの足利市の石仏巡りから離れて、栃木市へ入る。しかし、この栃木市の寺院さんと私は、なぜか相性が悪い地区なのである。最初に乗り込んだ、皆川城内町の曹洞宗金剛院で早速にその洗礼を受けて、歴代の皆川城主が祀られている墓地を見学に訪れただけなのに、身元調査から始まる嫌な思いをさせられてから、しぶしぶ承知(と、その態度から感じた)となる。
なぜこうも、栃木市の寺院さんは私を嫌うのだろうかと最初に栃木市の寺院を訪ねた頃は思い、その嫌な経験の積み重ねから、いつしか栃木市の寺巡りは敬遠してしまっていた。しかしその後、どうもそう感じているのは私だけでないことを、歴史好きで栃木市の寺院を訪ねた皆様からも同様の体験を聞くに及び、その嫌な思いを受けたのは私のみならず、これは栃木市の人間性にあるらしいことが判った。いずれにせよ、私は栃木市の寺院は好きになれない。が、そういっていては石仏巡りの成果があがらないので、いっそのこと「栃木市の対応の悪かった寺院」一覧表を作ってみようと考えた。そしてどんなに嫌な目に遭っても、とにかくひたすら堪えて石仏・石造物を調査したいと思っている。
しかし、金剛院の本堂前に建立されている石燈籠、これは文句なしに素晴らしい!。家人の目を気にしながら、その銘文を読んでみると「寛永十年」とあるから、納得する。やはりこの時代の石造物は手抜きがなく、見ただけでその存在感を与えている。
その金剛院へ行く手前に城下北公民館があり、そこに観音堂が建っている。その敷地には合計で11基の碑塔が集められていて、中にはなかなか面白い物もある。その内の舟形に浮き彫りされた2基の青面金剛像、岩舟石のような石材が災いして今はかろうじて青面金剛像容であることが判る程度だが、像容としては古そうなだけに何とも残念である。
続いて、真言宗・成就院へ向かう。丁度、住職さんが境内の草むしりをしていたので石仏調査の許可を頂くと、ここではすんなり了解してくれた。車を置かせていただいて、道路入口に祀られている碑塔を調査する。ここでの目玉は、享保四年の四臂青面金剛像容塔である。また、享和二年銘の十九夜供養塔の如意輪像も素晴らしいが、こちらは覆屋の中にあるので、調査するだけでも大変であるのが残念。そして面白いのは、境内にある梵鐘で、戦争に為に供出してしまってなくなった梵鐘再建を始めたところ、近くの持明寺さんのご厚意から譲り受けた物であることが記されている。昭和41年製だが、光明真言梵字が刻まれている。
続いて向かうは、大楽院である。ご挨拶に行くと、生憎と留守で誰もいない。境内には大きな宝塔型宝篋印塔が建っているだけに、その銘文を読むためにも承諾を得たかったが留守とは致し方ない。途中で家人が戻ってきて、了解も得ずに調べていて叱られたのではかなわないので、少し焦りながら銘文を写し取る。が、その偈文はあちこちからの良い所取りなのですんなりとは行かずにやはり30分近くかかってしまう。その後は入口に散在している碑塔の調査、こちらはすんなりと終了。以上でもって、栃木市柏倉町内の碑塔調査は終了したことになる。
栃木市の碑塔調査はこのくらいで切り上げ、次の今日の目的地であった葛生町の小藤神社へ向かう。そしてその途中、これまで何十回となくその前を通っていながら一度も立ち寄らなかった道路沿いの碑塔を気まぐれ的に覗いてビックリ!。そこの覆屋の中に納まっている青面金剛像、見た目にどうも怪しいので、閉じられている覆屋の扉をこじ開けて見てみると、何とそこに出てきた紀年銘は「延寶八年」とある庚申年の物だった。これは、あの中山氏の資料にもないものだけに一人舞い上がり、精査して後日連絡することにする。
ところで今日は、いつもなら早めに用意する昼食用の食料がまだ手に入れていない。時計はまもなく12時になるというのに、これは困ったと葛生町の中まで行って購入してくる。そして昼食場所は、今回の目的地である小藤神社境内であることは勿論である。実は、昨年の多摩石仏の会の皆様を滅多に見られない「孔子像」を見せるために案内した折り、その孔子像の上部にある円形の中に北斗七星が線刻されているのを指摘された。それ以後、その北斗七星部分を拓本に取っておかなければと思いつつも、今日まで来られなかったのである。まずは腹を満たして一休み。そして道具一式を抱えて、のんびりと且つ慎重に採拓して、何とかその目的を達成することが出来た。
今日の、石仏巡りの予定はここで終了。しかし、帰宅するには少なからず時間が余っているので、ここ半年の間に所在場所をご教示頂いていた岩舟町の該当碑塔を調査することにする。まずは、東京の多田氏から教えていただいた岩舟町三谷地区の延宝庚申塔。すでに下見はしていたので、近くの農家のご主人に許可を得てからカメラ三脚を抱えて行く。佐野市の高橋氏は、その青面金剛が納まっている覆屋の扉を開けて撮影したというが、私には何としてもその扉が開けられない。無理に明けようとすると、扉が全壊してしまいそうなのである。これには困った。銘文等は外から確認できるが、写真だけはどうにもならない。仕方がないので、こわれた隙間からカメラを差し込んで何とも様にならない写真を撮る。また、そこにある狛犬も調査する。何しろ、元文銘を持つ狛犬だけに、これは貴重である。また、その像容もなかなかに味わいがある。
次は、佐野市在住の山口秋葉子氏にご教示頂いていた岩舟町静地区の御門神社の碑塔である。この御門神社は既に調査済みだったが、社務所西側の碑塔だけを見逃してしまっていたのである。板駒の六臂蛇持ち青面金剛様は元禄四年の造立である。こんなにも立派な庚申塔を見逃すようなのだから、私の石仏巡りも好い加減なものだと、一人で苦笑。
連休最初の石仏巡りは、この辺で終わりにしようとコーヒーを飲んで一休み。時計はまだ3時だから、あと1時間は石仏巡りが出来る計算になるが、何となく一休みした時点でその気はなくなり、そのままのんびり帰路に就く。
朝、メールを開いてみると高橋氏より私の誘いに5月3日は足尾町間藤駅で9時~9時半頃待っているとの連絡が入っている。足尾町へは1年半ぶりの訪問となる。早速今夜は、3日の為の訪問予定地の計画を無駄のないように立てようと思う。
4月最後の石仏巡り
昨日4月29日から、いよいよ今年最大の大型連休の開始である。そして毎年の事ながら、私といえばこの期間中はいつもの石仏巡りとは異なり、栃木県内のあちこちをさまよい歩くことになっている。
その例に漏れず、今回の初日もいつもの足利市の石仏巡りから離れて、栃木市へ入る。しかし、この栃木市の寺院さんと私は、なぜか相性が悪い地区なのである。最初に乗り込んだ、皆川城内町の曹洞宗金剛院で早速にその洗礼を受けて、歴代の皆川城主が祀られている墓地を見学に訪れただけなのに、身元調査から始まる嫌な思いをさせられてから、しぶしぶ承知(と、その態度から感じた)となる。
なぜこうも、栃木市の寺院さんは私を嫌うのだろうかと最初に栃木市の寺院を訪ねた頃は思い、その嫌な経験の積み重ねから、いつしか栃木市の寺巡りは敬遠してしまっていた。しかしその後、どうもそう感じているのは私だけでないことを、歴史好きで栃木市の寺院を訪ねた皆様からも同様の体験を聞くに及び、その嫌な思いを受けたのは私のみならず、これは栃木市の人間性にあるらしいことが判った。いずれにせよ、私は栃木市の寺院は好きになれない。が、そういっていては石仏巡りの成果があがらないので、いっそのこと「栃木市の対応の悪かった寺院」一覧表を作ってみようと考えた。そしてどんなに嫌な目に遭っても、とにかくひたすら堪えて石仏・石造物を調査したいと思っている。
しかし、金剛院の本堂前に建立されている石燈籠、これは文句なしに素晴らしい!。家人の目を気にしながら、その銘文を読んでみると「寛永十年」とあるから、納得する。やはりこの時代の石造物は手抜きがなく、見ただけでその存在感を与えている。
その金剛院へ行く手前に城下北公民館があり、そこに観音堂が建っている。その敷地には合計で11基の碑塔が集められていて、中にはなかなか面白い物もある。その内の舟形に浮き彫りされた2基の青面金剛像、岩舟石のような石材が災いして今はかろうじて青面金剛像容であることが判る程度だが、像容としては古そうなだけに何とも残念である。
続いて、真言宗・成就院へ向かう。丁度、住職さんが境内の草むしりをしていたので石仏調査の許可を頂くと、ここではすんなり了解してくれた。車を置かせていただいて、道路入口に祀られている碑塔を調査する。ここでの目玉は、享保四年の四臂青面金剛像容塔である。また、享和二年銘の十九夜供養塔の如意輪像も素晴らしいが、こちらは覆屋の中にあるので、調査するだけでも大変であるのが残念。そして面白いのは、境内にある梵鐘で、戦争に為に供出してしまってなくなった梵鐘再建を始めたところ、近くの持明寺さんのご厚意から譲り受けた物であることが記されている。昭和41年製だが、光明真言梵字が刻まれている。
続いて向かうは、大楽院である。ご挨拶に行くと、生憎と留守で誰もいない。境内には大きな宝塔型宝篋印塔が建っているだけに、その銘文を読むためにも承諾を得たかったが留守とは致し方ない。途中で家人が戻ってきて、了解も得ずに調べていて叱られたのではかなわないので、少し焦りながら銘文を写し取る。が、その偈文はあちこちからの良い所取りなのですんなりとは行かずにやはり30分近くかかってしまう。その後は入口に散在している碑塔の調査、こちらはすんなりと終了。以上でもって、栃木市柏倉町内の碑塔調査は終了したことになる。
栃木市の碑塔調査はこのくらいで切り上げ、次の今日の目的地であった葛生町の小藤神社へ向かう。そしてその途中、これまで何十回となくその前を通っていながら一度も立ち寄らなかった道路沿いの碑塔を気まぐれ的に覗いてビックリ!。そこの覆屋の中に納まっている青面金剛像、見た目にどうも怪しいので、閉じられている覆屋の扉をこじ開けて見てみると、何とそこに出てきた紀年銘は「延寶八年」とある庚申年の物だった。これは、あの中山氏の資料にもないものだけに一人舞い上がり、精査して後日連絡することにする。
ところで今日は、いつもなら早めに用意する昼食用の食料がまだ手に入れていない。時計はまもなく12時になるというのに、これは困ったと葛生町の中まで行って購入してくる。そして昼食場所は、今回の目的地である小藤神社境内であることは勿論である。実は、昨年の多摩石仏の会の皆様を滅多に見られない「孔子像」を見せるために案内した折り、その孔子像の上部にある円形の中に北斗七星が線刻されているのを指摘された。それ以後、その北斗七星部分を拓本に取っておかなければと思いつつも、今日まで来られなかったのである。まずは腹を満たして一休み。そして道具一式を抱えて、のんびりと且つ慎重に採拓して、何とかその目的を達成することが出来た。
今日の、石仏巡りの予定はここで終了。しかし、帰宅するには少なからず時間が余っているので、ここ半年の間に所在場所をご教示頂いていた岩舟町の該当碑塔を調査することにする。まずは、東京の多田氏から教えていただいた岩舟町三谷地区の延宝庚申塔。すでに下見はしていたので、近くの農家のご主人に許可を得てからカメラ三脚を抱えて行く。佐野市の高橋氏は、その青面金剛が納まっている覆屋の扉を開けて撮影したというが、私には何としてもその扉が開けられない。無理に明けようとすると、扉が全壊してしまいそうなのである。これには困った。銘文等は外から確認できるが、写真だけはどうにもならない。仕方がないので、こわれた隙間からカメラを差し込んで何とも様にならない写真を撮る。また、そこにある狛犬も調査する。何しろ、元文銘を持つ狛犬だけに、これは貴重である。また、その像容もなかなかに味わいがある。
次は、佐野市在住の山口秋葉子氏にご教示頂いていた岩舟町静地区の御門神社の碑塔である。この御門神社は既に調査済みだったが、社務所西側の碑塔だけを見逃してしまっていたのである。板駒の六臂蛇持ち青面金剛様は元禄四年の造立である。こんなにも立派な庚申塔を見逃すようなのだから、私の石仏巡りも好い加減なものだと、一人で苦笑。
連休最初の石仏巡りは、この辺で終わりにしようとコーヒーを飲んで一休み。時計はまだ3時だから、あと1時間は石仏巡りが出来る計算になるが、何となく一休みした時点でその気はなくなり、そのままのんびり帰路に就く。
朝、メールを開いてみると高橋氏より私の誘いに5月3日は足尾町間藤駅で9時~9時半頃待っているとの連絡が入っている。足尾町へは1年半ぶりの訪問となる。早速今夜は、3日の為の訪問予定地の計画を無駄のないように立てようと思う。