4月22日の石仏巡り
今日は、東京の「多摩石仏の会」様を足利市に迎えて、足利市西部地区の庚申塔巡り日である。JR山前駅に10時11分着の電車で全員が勢揃いするまで時間があるので、私は五十部町で唯一調査未了の瑞泉院へ行って石仏調査。しかし境内には沢山の碑塔が在りすぎて、予定では一時間もあれば終了するだろうと思っていたが10時近くになっても半分ほどが残っている。残念だが、この続きは次回へ繰り越しとして山前駅へ向かう。
いつもなら必ず私よりも先に来ている高橋氏が、今回に限って未到着である。珍しいことが有る物だと駅ホームへ行って到着時間などを確認していると10時きっかりに高橋氏が到着。朝の挨拶をして話しを聞けば、高橋氏も朝の一仕事としてあちこち調査などをしていたとのこと。どうも、やることは一緒でそれなら一緒に行動すればよかったね、と大笑い。そんなところへ、昨年秋以来の同じ顔ぶれの面々が電車で到着。そして今回は、昨秋の庚申塔巡りには直前で来られなくなった、御年92歳になる最長老の森永氏を加えて総勢9名での庚申塔巡りが開始となる。
まずは、直ぐ近くの葉鹿町共同墓地内の延宝と寛文の庚申塔調査。延宝年間の自然石庚申塔の珍しさと、かつて初めに中山氏が読んで知らせてくれた寛文像容庚申塔を見る。その文字の確認に皆でワイワイしながら、どうやら今回も賑やかな庚申と巡りになりそうである。次は、私が先週訪れた庚申塔群へ案内。ここでもああだ、こうだと様々な意見が飛び交うも、結局は庚申塔と結論づけられぬまま終了する。
ここまでは、今日の庚申塔巡りの序章である。いよいよ、山肌の斜面に150余基がずらりと並ぶ山前町入東の庚申山へ入る。中山氏と私は、その間に薬師堂隣にある四天王の内の2基像容塔を見てくる事にする。4体の内の2体しかないが、それでも四天王像容塔は民間信仰石仏としては少ない部類だけに、中山氏も喜んで写真を撮る。と、そこへ庚申塔を見ている筈の面々が後を追いかけてきて、結局は全員でこの珍しい四天王像を見学する事になってしまった。というよりは、庚申山の余りの数の多さに調査意欲を失っての行動と見た。(これは、私にしても同じでここへ何度来てもそれを悉皆調査する気力は失ってしまうのだから、遠方から来た皆様にしてはなおさらのことである)
適当に切り上げて、次へ向かうは高橋氏と一緒に見つけた今迄未発表の延宝庚申塔の銘文確認である。時間節約のため、事前に私が取っていた拓本を碑面に当てながら全員で解読の結果、それは「奉納甲申二世爲安樂」と結論を得た。
次も今回の庚申塔巡りには入れていなかった、番外の松田町・虚空蔵堂敷地にある庚申塔調査へ向かう。上部が欠損している板碑型庚申塔だが、私はこれを江戸前期それも延宝年間と推定していたので、その確認のために皆様を引き込んだのである。ここでも過去に取っていた拓本を見せながらの話しとなる。碑面は摩耗甚だしく、かろうじて下部に線刻された二猿二鶏だけが頼りという心許ない物証だが、どうにか延宝年間塔としての全員の承諾を得ることが出来た。なお、この庚申塔は見た目には酷い物で、拓本によってかろうじて二猿二鶏の姿が浮かび上がってくる物である。ちなみに、さすがは庚申塔巡りの面々である。この虚空蔵堂隣の喜福院境内にある明和九年銘を含めた都合3体の双体道祖神があるのを教えても、見たいとは言わないのだから…
ここで一旦戻って、今度は粟谷町の「弓・矢バンザイ型」青面金剛像を案内する。バンザイ型に興味津々の石川氏が、特に喜んでくれたようだ。また長老の森永氏も、これは面白いと熱心に写真を撮っている。この時点で既に12時を過ぎているので、取りあえずは午前の部を終えて、粟谷町の奥の昼食場所へと向かう。
それにしても今日は、何という石仏巡り好日だろう。昨日までの荒れた天候が嘘のように晴れ渡り、萌え出たばかりの新緑を眺めながらの昼食時間に和気藹々とした会話と共に楽しい昼食時間が過ぎていく。また、その背には庚申塔を初めとした碑塔があるのだから、なおさらである。そこで、ここで全員揃っての記念写真撮影会となる。(その一こまをHPの方へ掲載しました)
昼食後は、昼食場所への道沿いにある延宝庚申塔へ立ち寄って調査する。もちろん、同地にあるその他の碑塔も見学したのは言うまでもない。
ここから、今日の午後の部開始である。まずは、粟谷町最南端の庚申様へ立ち寄り、ここで「一石百文字・千庚申」四角柱を見る。もちろんこれは、現時点で全国唯一の「千庚申」一石百文字塔だけに、痛みの激しい塔ながら熱心に見学する。
終えて、近くの養源寺さんを訪問。ここでの目玉は、墓地入口にある寛文の庚申塔。そして境内にある百庚申塔群の見学である。特に、百石百書体の自然石庚申塔に注目が集まるのは当然だろう。終了間際に、境内にある不動三尊像を見てくるといった面々が、住職ご家族から、いつもの「お茶を飲んでいってください」というご丁寧な言葉をかけられ慌てて戻ってくる。
さて次は、私と高橋氏の二人で確認した、足利市最古の庚申塔がある小俣町の宝珠坊跡地の共同墓地へと向かう。何しろその庚申塔は、美しさの点でも足利市最高のものだけに、その確認には皆さんのお墨付きが必要だし、何よりもその紀年銘全体の最終確認をしたくて案内した次第である。そして皆さんで時間をかけて確認した結果「寛文四甲辰六月念七日」と判明した。最も喜んだのは中山氏であり、私であるのは言うまでもない。そしてその紀年銘の有る場所の特異性に皆が驚く。恐らくこれからこの紀年銘の有る場所を目にした今日の参加者は、銘文の見つからない古い時代の庚申塔調査時には、この庚申塔を思い出してせっせと磨くことだろうと可笑しくなる。
いよいよ、今回の庚申塔巡り予定地最後の場所である、小俣町鹿島神社へと向かう。そして数年しただけでこうも現況が変わってしまうのかと驚いているのは中山氏。そして多田氏は、一人で倒壊した庚申塔を抱き起こしたという話しに大笑いする。というのも、それは二人掛かりでもやっと起こせるような大きな青面金剛像塔だからである。そして今回は多数で来ていながら、それをまた立ち上がらせようとする者は誰も手を上げない。外野で誰がやれ、あんたがやれと押しつけてばかりいてらちがあかない中、結局は体力がある加地氏と多田氏が挑戦して何とか写真が撮れた。また今回は、高橋氏はハサミを持ってきて足にからみつく枝を切りながら薮道を切り開いてくれたので、みんな大喜びである。それにしても、この地はやがて埋もれて一般の方ではそこに延宝庚申塔を初めとした素晴らしい庚申塔があると文章で確認するも、現物を探すことは叶わなくなるだろう。
以上で、今回の「多摩石仏の会」の皆様との楽しい足利市西部地区の庚申塔巡りは無事に終了した。しかし、まだ陽は高い。このまま帰路への道を辿ったのでは、皆さんの探求心が不完全燃焼するだろうと、時間の許す範囲で寄り道していくことにする。そして今回は私の車に乗り込んだ石川氏の望みを叶えるべく、昭和55年庚申塔を中心に小俣町の道路沿い2箇所と恵性院、そして小俣駅前の山神神社、さらにおまけとして篠生神社へと巡ってJR足利駅へ到着する。
今回も、またまた忙しい足利市西部地区の庚申塔に終始してしまったが、一日の何と短いことかと感じた楽しい共有の時間だった。
ますますの皆様のご活躍を願いながら、ここで別れて帰路に就く。
今日は、東京の「多摩石仏の会」様を足利市に迎えて、足利市西部地区の庚申塔巡り日である。JR山前駅に10時11分着の電車で全員が勢揃いするまで時間があるので、私は五十部町で唯一調査未了の瑞泉院へ行って石仏調査。しかし境内には沢山の碑塔が在りすぎて、予定では一時間もあれば終了するだろうと思っていたが10時近くになっても半分ほどが残っている。残念だが、この続きは次回へ繰り越しとして山前駅へ向かう。
いつもなら必ず私よりも先に来ている高橋氏が、今回に限って未到着である。珍しいことが有る物だと駅ホームへ行って到着時間などを確認していると10時きっかりに高橋氏が到着。朝の挨拶をして話しを聞けば、高橋氏も朝の一仕事としてあちこち調査などをしていたとのこと。どうも、やることは一緒でそれなら一緒に行動すればよかったね、と大笑い。そんなところへ、昨年秋以来の同じ顔ぶれの面々が電車で到着。そして今回は、昨秋の庚申塔巡りには直前で来られなくなった、御年92歳になる最長老の森永氏を加えて総勢9名での庚申塔巡りが開始となる。
まずは、直ぐ近くの葉鹿町共同墓地内の延宝と寛文の庚申塔調査。延宝年間の自然石庚申塔の珍しさと、かつて初めに中山氏が読んで知らせてくれた寛文像容庚申塔を見る。その文字の確認に皆でワイワイしながら、どうやら今回も賑やかな庚申と巡りになりそうである。次は、私が先週訪れた庚申塔群へ案内。ここでもああだ、こうだと様々な意見が飛び交うも、結局は庚申塔と結論づけられぬまま終了する。
ここまでは、今日の庚申塔巡りの序章である。いよいよ、山肌の斜面に150余基がずらりと並ぶ山前町入東の庚申山へ入る。中山氏と私は、その間に薬師堂隣にある四天王の内の2基像容塔を見てくる事にする。4体の内の2体しかないが、それでも四天王像容塔は民間信仰石仏としては少ない部類だけに、中山氏も喜んで写真を撮る。と、そこへ庚申塔を見ている筈の面々が後を追いかけてきて、結局は全員でこの珍しい四天王像を見学する事になってしまった。というよりは、庚申山の余りの数の多さに調査意欲を失っての行動と見た。(これは、私にしても同じでここへ何度来てもそれを悉皆調査する気力は失ってしまうのだから、遠方から来た皆様にしてはなおさらのことである)
適当に切り上げて、次へ向かうは高橋氏と一緒に見つけた今迄未発表の延宝庚申塔の銘文確認である。時間節約のため、事前に私が取っていた拓本を碑面に当てながら全員で解読の結果、それは「奉納甲申二世爲安樂」と結論を得た。
次も今回の庚申塔巡りには入れていなかった、番外の松田町・虚空蔵堂敷地にある庚申塔調査へ向かう。上部が欠損している板碑型庚申塔だが、私はこれを江戸前期それも延宝年間と推定していたので、その確認のために皆様を引き込んだのである。ここでも過去に取っていた拓本を見せながらの話しとなる。碑面は摩耗甚だしく、かろうじて下部に線刻された二猿二鶏だけが頼りという心許ない物証だが、どうにか延宝年間塔としての全員の承諾を得ることが出来た。なお、この庚申塔は見た目には酷い物で、拓本によってかろうじて二猿二鶏の姿が浮かび上がってくる物である。ちなみに、さすがは庚申塔巡りの面々である。この虚空蔵堂隣の喜福院境内にある明和九年銘を含めた都合3体の双体道祖神があるのを教えても、見たいとは言わないのだから…
ここで一旦戻って、今度は粟谷町の「弓・矢バンザイ型」青面金剛像を案内する。バンザイ型に興味津々の石川氏が、特に喜んでくれたようだ。また長老の森永氏も、これは面白いと熱心に写真を撮っている。この時点で既に12時を過ぎているので、取りあえずは午前の部を終えて、粟谷町の奥の昼食場所へと向かう。
それにしても今日は、何という石仏巡り好日だろう。昨日までの荒れた天候が嘘のように晴れ渡り、萌え出たばかりの新緑を眺めながらの昼食時間に和気藹々とした会話と共に楽しい昼食時間が過ぎていく。また、その背には庚申塔を初めとした碑塔があるのだから、なおさらである。そこで、ここで全員揃っての記念写真撮影会となる。(その一こまをHPの方へ掲載しました)
昼食後は、昼食場所への道沿いにある延宝庚申塔へ立ち寄って調査する。もちろん、同地にあるその他の碑塔も見学したのは言うまでもない。
ここから、今日の午後の部開始である。まずは、粟谷町最南端の庚申様へ立ち寄り、ここで「一石百文字・千庚申」四角柱を見る。もちろんこれは、現時点で全国唯一の「千庚申」一石百文字塔だけに、痛みの激しい塔ながら熱心に見学する。
終えて、近くの養源寺さんを訪問。ここでの目玉は、墓地入口にある寛文の庚申塔。そして境内にある百庚申塔群の見学である。特に、百石百書体の自然石庚申塔に注目が集まるのは当然だろう。終了間際に、境内にある不動三尊像を見てくるといった面々が、住職ご家族から、いつもの「お茶を飲んでいってください」というご丁寧な言葉をかけられ慌てて戻ってくる。
さて次は、私と高橋氏の二人で確認した、足利市最古の庚申塔がある小俣町の宝珠坊跡地の共同墓地へと向かう。何しろその庚申塔は、美しさの点でも足利市最高のものだけに、その確認には皆さんのお墨付きが必要だし、何よりもその紀年銘全体の最終確認をしたくて案内した次第である。そして皆さんで時間をかけて確認した結果「寛文四甲辰六月念七日」と判明した。最も喜んだのは中山氏であり、私であるのは言うまでもない。そしてその紀年銘の有る場所の特異性に皆が驚く。恐らくこれからこの紀年銘の有る場所を目にした今日の参加者は、銘文の見つからない古い時代の庚申塔調査時には、この庚申塔を思い出してせっせと磨くことだろうと可笑しくなる。
いよいよ、今回の庚申塔巡り予定地最後の場所である、小俣町鹿島神社へと向かう。そして数年しただけでこうも現況が変わってしまうのかと驚いているのは中山氏。そして多田氏は、一人で倒壊した庚申塔を抱き起こしたという話しに大笑いする。というのも、それは二人掛かりでもやっと起こせるような大きな青面金剛像塔だからである。そして今回は多数で来ていながら、それをまた立ち上がらせようとする者は誰も手を上げない。外野で誰がやれ、あんたがやれと押しつけてばかりいてらちがあかない中、結局は体力がある加地氏と多田氏が挑戦して何とか写真が撮れた。また今回は、高橋氏はハサミを持ってきて足にからみつく枝を切りながら薮道を切り開いてくれたので、みんな大喜びである。それにしても、この地はやがて埋もれて一般の方ではそこに延宝庚申塔を初めとした素晴らしい庚申塔があると文章で確認するも、現物を探すことは叶わなくなるだろう。
以上で、今回の「多摩石仏の会」の皆様との楽しい足利市西部地区の庚申塔巡りは無事に終了した。しかし、まだ陽は高い。このまま帰路への道を辿ったのでは、皆さんの探求心が不完全燃焼するだろうと、時間の許す範囲で寄り道していくことにする。そして今回は私の車に乗り込んだ石川氏の望みを叶えるべく、昭和55年庚申塔を中心に小俣町の道路沿い2箇所と恵性院、そして小俣駅前の山神神社、さらにおまけとして篠生神社へと巡ってJR足利駅へ到着する。
今回も、またまた忙しい足利市西部地区の庚申塔に終始してしまったが、一日の何と短いことかと感じた楽しい共有の時間だった。
ますますの皆様のご活躍を願いながら、ここで別れて帰路に就く。