一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『シン・ゴジラ』……ゴジラ対日本の政治システムという構図が傑作を生んだ……

2016年08月08日 | 映画


日本を代表するシリーズ映画として君臨する“ゴジラ”。
第1作の『ゴジラ』(1954年)が公開されてから62年が経つが、
これまでに国内で計28作品が製作され、
1億人近い累計観客動員数を記録している。


その人気は国内に止まらず、
1998年にトライスター・ピクチャーズ提供による『GODZILLA』が、
2014年にはワーナー・ブラザーズ提供による『GODZILLA ゴジラ』が公開され、
日本で誕生したゴジラというキャラクターは、
今や、世界の“キングオブモンスター”となっている。
こうした状況の中、
再び日本版ゴジラ復活の声が高まり、
国内シリーズとしては29作目となる12年ぶりの新作『シン・ゴジラ』が誕生した。


脚本・総監督は、
人気アニメーション「エヴァンゲリオン」シリーズの生みの親にして、
日本のみならず世界中にファンをもつ庵野秀明。
庵野秀明総監督は、
第1作の1954年版を徹底的に研究して、
「現代日本に初めてゴジラが現れた時、日本人はどう立ち向かうのか?」
という1954年版のテーマを現代へと移して『シン・ゴジラ』の脚本を書き、
従来の虚構に虚構を重ねたような怪獣映画ではない映画を作ったという。
キャッチコピーは、「ニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)」。
“ゴジラ”シリーズで私が最も高く評価しているのは、第1作の1954年版。


その第1作へのオマージュとも言うべき『シン・ゴジラ』なら、
〈見たい〉と思った。


夏休みの映画館は子供たちで溢れかえっているので、
正直、あまり行きたくないのだが、
『シン・ゴジラ』を見るためならと、映画館へ足を運んだのだった。



東京湾・羽田沖。
突如、東京湾アクアトンネルが、
巨大な轟音とともに大量の浸水に巻き込まれ、崩落するという、
原因不明の事故が発生する。
首相官邸では、総理大臣以下、閣僚が参集されて緊急会議が開かれ、
「崩落の原因は地震や海底火山」という意見が大勢を占める中、
内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)だけが、
海中に棲む巨大生物による可能性を指摘する。


内閣総理大臣補佐官の赤坂秀樹(竹野内豊)をはじめ、


周囲は矢口の意見を一笑に付すものの、
直後、海上に巨大不明生物が姿を現す。


慌てふためく政府関係者が情報収集に追われる中、
謎の巨大不明生物は鎌倉に上陸する。


普段と何も変わらない生活を送っていた人々の前に突然現れ、
次々と街を破壊し、止まること無く進んでいく。
政府は緊急対策本部を設置し、自衛隊に防衛出動命令を発動。
さらに米国国務省からは、
女性エージェントのカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)が派遣されるなど、
未曽有の脅威に対し、日本のみならず世界もその行方を注視し始める。


そして、川崎市街にて、
“ゴジラ”と名付けられたその巨大不明生物と自衛隊との、
一大決戦の火蓋がついに切って落とされる……



映画を見た感想はというと、
「面白かった~」。(笑)
登場人物が多く、
セリフ量が多く、
情報量も多い作品なので、
素早いカッティングと、
緻密で無駄のないセリフ、
そして、洪水のように流れる情報はテロップで表示していく。
映画を見る者は、
それらすべてを知る必要はない。
人物が次々入れ替わるので、すべての人物を把握はできないし、
専門用語の混じったセリフは、すべてを理解することはできないし、
テロップも、すべてを読み取ることはできない。
そんなことは、庵野秀明総監督は、百も承知なのだ。
映画を見る者に、
大量の情報を浴びせ続け、感覚を麻痺させ、
俯瞰的に、本当に大事なものだけを察知するように仕向けているのだ。
映画鑑賞者は、
映画の中に溢れる情報をすべて理解しなくても、
映画を楽しく見ることができる仕組みになっているのだ。


『シン・ゴジラ』のテーマは、先ほども述べたように、
第1作の1954年版と同じく、
「現代日本に初めてゴジラが現れた時、日本人はどう立ち向かうのか?」。
1950年代の日本を現代に置き換え、
ゴジラが来襲した時に、現代日本の政治システムがどのような反応をするのかを描く。
それが、すこぶる面白い。
会議ばかりを繰り返し、
なかなか決断をせず、
責任も取ろうとしない。
思わず笑ってしまうようなシーンの連続に、
〈喜劇のようだが、それは悲劇でもある〉
と思い、
〈いや、悲劇なのだが、それは喜劇でもある〉
と思い直しもした。
ゴジラ来襲によってあぶり出される日本の政治システムの幼児性が、
可笑しくもあり、そして寂しくもあった。


ゴジラに立ち向かうキャストには、
内閣官房副長官・矢口蘭堂を演ずる長谷川博己、


内閣総理大臣補佐官の赤坂秀樹を演ずる竹野内豊、


米国国務省から派遣された女性エージェントのカヨコ・アン・パタースンを演ずる石原さとみの三人を中心に据えているが、


ハリウッド映画のように他の出演者たちより抜きん出た存在というわけではない。
この映画には、三人の他にも、
計328人にも及ぶ日本を代表する豪華俳優陣が出演しているのだ。
たとえば、比較的出演シーンの多い俳優を挙げると、
内閣官房副長官秘書官役の高良健吾、


環境省自然環境局野生生物課長補佐役の市川実日子、


防衛大臣役の余貴美子、


内閣総理大臣役の大杉漣、


農林水産大臣にして内閣総理大臣臨時代理役の平泉成、


保守第一党政調副会長役の松尾諭、


厚生労働省医政局研究開発振興課長・医系技官役の津田寛治、


文部科学省官僚役の高橋一生、


生物学者役の塚本晋也、


自衛隊・統合幕僚長役の國村隼、


自衛隊関係者役のピエール瀧などであるが、


その他にも、斎藤工、前田敦子、柄本明、古田新太、松尾スズキなど、
それぞれ主役を張れるような俳優たちが、
スクリーンの中を、流れるように登場しては消えてゆく。(笑)
〈あれっ、今の人、誰だっけ?〉
と思う暇もなく、次から次へと入れ替わる。
これは何を意味するかというと、
日本の組織力を表現しているのだと思う。


第1作の1954年版では、
ハリウッド映画のように、まだ個人が描かれていた。


ゴジラに学者的良心で向かう志村喬(山根博士)、


ヒロインの河内桃子(山根博士の娘)は清楚で美しく、


宝田明(サルベージ青年所長)とのラブロマンスがあったり、


水中酸素破壊剤を完成し、ゴジラと運命を共にする悲恋の青年科学者、
平田昭彦(芹沢博士)の『アルマゲドン』的な英雄的な行動があったりした。


『シン・ゴジラ』には、それがないのだ。
恋愛も家族愛も英雄譚も描かれてはいないのだ。
長谷川博己と石原さとみのラブロマンスを期待したが、(笑)
その欠片、片鱗さえなかった。


328人の俳優たちの群像劇を、
日本映画では異例の、
総監督・脚本・編集:庵野秀明、
監督・特技監督:樋口真嗣、
准監督・特技総括・B班監督:尾上克郎
という三監督、
A班、B班、C班、D班という四班体制、
総勢1000人以上のスタッフが支え、
超大規模撮影を敢行し、
“まだ誰も観たことのないゴジラ”の映画を創り上げたのだ。
1954年版と決定的に違うのは、そこなのだ。
“個”を描いた作品ではなく、
“組織力”を描いた作品という所以である。
それ故に、
子供や、ゴジラマニア向けの映画ではなく、
普通の大人の鑑賞にも堪えうる映画となっているし、
3.11などを経て、復興や再生にもがく現代日本の向かうべき方向を示唆し、
これからの日本に希望を抱かせる映画になっている。
見ておくべき傑作映画である。
映画館で、ぜひぜひ。


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