![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ed/d52636f9d6987135c4fbf055c4250df3.jpg)
北海道の道は、本土に比べてまっすぐな道が多く、
行けども行けども目的地に達しないような気分を何度も味わった。
まっすぐな道は、車で走れば快適なのかもしれないが、
歩きの旅人にとっては、精神的にかなり疲れるものであった。
写真を見ればわかるように、
北海道の道には、道の両側に、下向きの矢印が付いたポールが、ある一定の間隔をおいて並んでいる。
これは積雪して道の幅がわからなくなった時の為のものらしい。
矢印は、車道と路肩の間にある白線を示しており、
車(除雪車など)が道からそれないようにとの目的で設置されているようなのだ。
九州にはないものなので、最初は「何だろう?」と訝りながら歩いていた。
「なぜ、徒歩日本縦断を思い立ったのか?」
それは、ある一冊の本との出逢いから始まった。
その本とは、アラン・ブース著『ニッポン縦断日記』(東京書籍1988.10刊)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/31/cbf8989b149a0b0e7b9b2f540d11aba1.jpg)
今から約24年前、私は本書を書店で見つけ、買った。
その時、歩いて日本を縦断した男がいることを初めて知った。
それも日本人ではない外国の人が……。
【アラン・ブース】
1946年ロンドンの下町に生まれる。
バーミンガム大学で演劇を学んだ後、1970年に来日。
長くて1年のつもりだったが、以後ほとんど日本に滞在。
早稲田大学英文科で教えた後、
作家として英字新聞や日本の雑誌に、
社会批評や邦画批評をはじめ、日本の伝統芸能についてのコラムを執筆。
1977年6月29日から11月3日にかけて、
北海道・宗谷岬から鹿児島県・佐多岬まで3300kmを徒歩で縦断。
その後も「歩き旅」は続く。
津軽への3週間の徒歩旅行。
延岡から鹿児島への480kmの歩き旅。
500kmを歩いた四国横断の旅――。
だが、1993年1月、がんのため死去(享年46歳)。
とても面白く、何度も読み返しているうちに、私の胸の内にとんでもない思いが芽生えた。
〈私も徒歩日本縦断というものをやってみたい!〉
妻と二人の子供がいる中年の平凡な会社員であった私にとっては、一大決心であった。
妻の承諾を得、会社を辞め、徒歩日本縦断の旅に出たのは、この本に出逢ってから7年後(1995年)のことであった。
行けども行けども目的地に達しないような気分を何度も味わった。
まっすぐな道は、車で走れば快適なのかもしれないが、
歩きの旅人にとっては、精神的にかなり疲れるものであった。
写真を見ればわかるように、
北海道の道には、道の両側に、下向きの矢印が付いたポールが、ある一定の間隔をおいて並んでいる。
これは積雪して道の幅がわからなくなった時の為のものらしい。
矢印は、車道と路肩の間にある白線を示しており、
車(除雪車など)が道からそれないようにとの目的で設置されているようなのだ。
九州にはないものなので、最初は「何だろう?」と訝りながら歩いていた。
「なぜ、徒歩日本縦断を思い立ったのか?」
それは、ある一冊の本との出逢いから始まった。
その本とは、アラン・ブース著『ニッポン縦断日記』(東京書籍1988.10刊)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/31/cbf8989b149a0b0e7b9b2f540d11aba1.jpg)
今から約24年前、私は本書を書店で見つけ、買った。
その時、歩いて日本を縦断した男がいることを初めて知った。
それも日本人ではない外国の人が……。
【アラン・ブース】
1946年ロンドンの下町に生まれる。
バーミンガム大学で演劇を学んだ後、1970年に来日。
長くて1年のつもりだったが、以後ほとんど日本に滞在。
早稲田大学英文科で教えた後、
作家として英字新聞や日本の雑誌に、
社会批評や邦画批評をはじめ、日本の伝統芸能についてのコラムを執筆。
1977年6月29日から11月3日にかけて、
北海道・宗谷岬から鹿児島県・佐多岬まで3300kmを徒歩で縦断。
その後も「歩き旅」は続く。
津軽への3週間の徒歩旅行。
延岡から鹿児島への480kmの歩き旅。
500kmを歩いた四国横断の旅――。
だが、1993年1月、がんのため死去(享年46歳)。
とても面白く、何度も読み返しているうちに、私の胸の内にとんでもない思いが芽生えた。
〈私も徒歩日本縦断というものをやってみたい!〉
妻と二人の子供がいる中年の平凡な会社員であった私にとっては、一大決心であった。
妻の承諾を得、会社を辞め、徒歩日本縦断の旅に出たのは、この本に出逢ってから7年後(1995年)のことであった。