一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

一人読書会『魔の山』(トーマス・マン)➁ ……続けて第二章を読んでみた……

2025年02月15日 | 一人読書会


『魔の山』読了計画の2回目は、
45頁から80頁までの第二章を読んだ。
第二章には、
「洗礼盤とふたつの姿を持つ祖父について」
「ティーナッペル家にて。およびハンス・カストルプの精神状態に関して」

という二つの節があり、
(第一章での物語は一旦止まり)ハンス・カストルプの少年時代が語られる。


ハンス・カストルプは、5歳と7歳のときに両親を亡くし、祖父に引き取られるが、
1年半後には、その祖父も亡くなってしまう。
その後、母方の大叔父であるティーナッペル領事の家で、
そこの子供たちと一緒に成長する。

正直に言うと、この第二章はけっこう難解だ。
意味を把握するために、何度か読み返しをしなければならなかった。


第二章の第一節は、
「洗礼盤とふたつの姿を持つ祖父について」というタイトルなので、
洗礼盤が重要なキーワードとなる。
洗礼盤とは、キリスト教の信徒になるための洗礼式で使われる道具で、
儀式に用いる水を入れる容器だ。
祖父の家には、カストルプ家で代々使われてきた洗礼盤と、それを載せる銀の皿が保管されていた。
ハンス・カストルプは、その洗礼盤を見せてもらうことが好きだった。
先祖たちが生きた遠い過去と現在の自分につながるような感覚をもたらしてくれる洗礼盤。
それについて説明する祖父の声には、
宗教的な感じと、死の感じと、歴史の感じとが、混ざり合っていた。


少年は祖父の細い白髪頭を見上げた。それは、祖父がいま話している遠い昔の洗礼のときのように、洗礼盤の上にかがみこんでいた。すると少年は、それまでにも経験したことのあるひとつの感情に襲われるのであった。それは進んでいると同時に止まっているような、変転しながら停止して、目まいを起こすようで単調な繰り返しをしているような、半分夢のようで、そのくせひとを不安にさせる一種異様な感情だった。これはいままでにも、洗礼盤を見せてもらうたびごとに経験した気持で、実は少年がふたたびそれに見舞われたいと待ち望んでいる気持であった。止りながらも、しかも動いているこの先祖伝来の器を、少年がこんなにたびたび見せてもらいたがったのは、いくぶんかはそういう気持からのことだった。(52~53頁)

洗礼盤から呼び起こされえる「目まい」の感覚。
この「目まい」の感覚は、ハンス・カストルプが好んで抱いていた感覚とも言え、
第一章にも、
大人になったハンス・カストルプが、いとこを見舞うために療養所へ向かう列車の中で、
「めまい」に襲われる場面がある。

彼は軽いめまいに襲われ、気分が悪くなって、二秒ほど手で目を覆っていた。(16頁)

少年のときに経験した、

変転しながら停止して、目まいを起こすようで単調な繰り返しをしているような、半分夢のようで、そのくせひとを不安にさせる一種異様な感情だった。

という「めまい」は、(「目まい」「めまい」と翻訳表記にブレがある)
療養所へ向かう列車の中で遭遇した「目まい」に通じている。
洗礼盤が呼び起こしたこの「めまい」の感覚は、
ハンス・カストルプがずっと好んで抱いていた感覚とも言え、
下界の時間の流れとは別の時間軸で動いているベルクホーフとは “親和性”があり、
療養所に馴染む素質がハンス・カストルプには元々あったのだと言えるのではないだろうか。


祖父の死後、大叔父のティーナッペル領事の家に引き取られた後も、
ハンス・カストルプは、裕福な環境で、上流階級の子弟にふさわしいものを身につけ、育つ。
そして、『魔の山』の語り手は、ハンス・カストルプのことを、

天才ではなかったが、愚物でもなかった。(69頁)

と評し、

人間というものは、個々の存在として個人的生活を送っていくのみならず、意識的あるいは無意識的に、自分の生きている時代の生活や自分の同時代人の生活をも生活していくものである。(70頁)

と述べる。
そして、次のように持論を展開する。

われわれは誰しも、いろいろな個人的目的、目標、希望、見込みなどを眼前に思い浮かべて、そういうもののために高度の努力や活動へと駆りたてられもしようが、しかし私たちを取巻く非個人的なもの、つまり時代そのものが、外見上ははなはだ活気に富んでいても、その実、内面的には希望も見込みも全然欠いているというような場合には、つまり時代が希望も見込みも持たずに困りきっているという実情が暗々裡に認識できて、私たちが意識的または無意識的になんらかの形で提出する質問、すなわちいっさいの努力や活動の究極の、超個人的な、絶対的な意味に関する質問に対して、時代が空しく沈黙しつづけるというような場合には、そういう状況は必然的に、普通以上に誠実な人間にある種の麻痺作用を及ぼさずにはおくまいと思う。しかもこの作用は、個人の精神的、道徳的な面から、さらに肉体的、有機的な面にまで拡がっていくかもしれない。(70~71頁)

ハンス・カストルプの学生時代をこのように論じた後、

(凡庸な人間だとは評したくないが)彼はやはり「凡庸」だったのであろう。(71頁)

と断じる。
そんな凡庸な人間がなぜ主人公なのか?
この『魔の山』の語り手は饒舌なのだが、
すべてを語っているようで、肝心なところは語っていないようにも感じる。
この語り手は、『魔の山』の登山ガイドのようでもあり、
読者は、本来はこの登山ガイドに従って登山するべきなのかもしれないが、
この登山ガイド(語り手)の言にすべてを委ねてしまうのは危険なのかもしれない。
そんなことを思いながら第二章を読み終えた。

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