一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『ポストコロナの生命哲学』……カーソンがオオカバマダラを見て感じたこと……

2023年01月23日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


※PCでご覧の方で、文字が小さく感じられる方は、左サイドバーの「文字サイズ変更」の「大」をクリックしてお読み下さい。


昨年(2022年)の11月初旬、
地元紙に次のような読者投稿があった。

自宅の庭で初めて見かけたカバマダラ。沖縄・奄美以南に生息しているチョウで、先月の台風で一緒に本州へ迷い込んできたのかも。(鹿島市、Nさん・89歳)


カバマダラ(樺斑、学名:Danaus chrysippus)は、
チョウ目タテハチョウ科の昆虫。チョウの一種。
アフリカ区のほかインド・オーストラリア区に分布。
日本では、奄美大島以南の南西諸島だが、温暖化により徐々に北上しているようである。
体が小さいため、台風の目に乗って移動するなどし、
九州から四国、本州の太平洋側にかけての記録は珍しいものではないほどである。


アサギマダラはよく見かけるが、
カバマダラというのは知らなかった。
知らなかっただけで、アサギマダラと似ているので、どこかで見かけていたかもしれない。
なぜ、カバマダラのことを書いているかというと、
最近読んだ『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書)という本の中に、


オオカバマダラについての記述があったからだ。

オオカバマダラ(大樺斑・学名Danaus plexippus )は、
チョウ目・タテハチョウ科・マダラチョウ亜科に分類されるチョウの一種。
主に、北アメリカのカナダ南部から南アメリカ北部にかけて分布するが、
西インド諸島、太平洋諸島(オーストラリアとニュージーランドなど)、カナリア諸島とマデイラ諸島にも分布する。
北アメリカでは渡り鳥のように渡りをするチョウとして有名。



『ポストコロナの生命哲学』は、
生物学者・福岡伸一、
美学者・伊藤亜紗、
歴史学者・藤原辰史の3人が、
新型コロナウイルスの感染症拡大で混迷を極める世界を考え、
今の政治、経済、社会、科学から抜け落ちている「いのち」に対する基本的態度や、
これからを生きる拠り所となる生命哲学を語ったもの。


この中で、
福岡伸一が、
レイチェル・カーソンがオオカバマダラについて語った文章を引用しながら、
実に興味深い話をしていた。


私が少年時代から観察している虫たちは、春になると生まれ、夏になればつがい、時期が来れば、消え去っていきます。私はそこに清々しい潔さを感じます。
また、レイチェル・カーソンを引き合いに出しますと、彼女は『沈黙の春』を書き上げたとき、すでにガンに侵されていて、自分の時間がそれほど残されていないことを知っていました。
本はベストセラーになりましたが、一方で、体制側や産業界からの反撃もすさまじく、政府高官から、子どももいないヒステリーの独身女がなぜ遺伝のことを心配するのか、といった心ない暴言を投げつけられていました。けれども、彼女はまったく揺らぎませんでした。
その後、カーソンはアメリカ・メイン州の、海の近くにある別荘で療養生活を送りました。ある日、彼女は海沿いで何時間もの間、友人のドロシーと一緒に、次々と目の前を飛び去っていく、モナーク蝶(オオカバマダラ)を眺めていました。
モナーク蝶というのは、日本のアサギマダラに似た、美しい蝶で、ひらひら飛んで、長い距離を移動する、いわば渡り鳥ならぬ「渡り蝶」として有名です。北米からメキシコまで旅を続けます。蝶や虫にあまり関心があるようには見えないアメリカの人たちも、モナーク蝶にだけは感じるところがあるらしく、州の蝶になったり、自然保護運動の対象になったりしています。
カーソンは次のように書いています。


でも、とりわけ心に強く残ったのは、まるで見えない力に引き寄せられるように、西に向かって一羽、また一羽とゆっくり飛んでいく、オオカバマダラの姿でした。私たちは、あの蝶たちの一生について話しましたね。彼らは戻ってきたでしょうか? いいえ、あのとき二人で話したように、蝶たちにとって、それは生命の終わりへの旅立ちでした。
午後になって、思い返してみて、気づきました。あの光景はあまりにも美しかったので、蝶たちがもうけっして戻ってこないという事実を口にしても、悲しいとは感じませんでした。それに、すべての生きとし生けるものが生命の終わりを迎えるとき、私たちはそれを自然のさだめとして受け入れます。
オオカバマダラの一生は、数カ月という単位で定められています。人間の一生はまた別のもので、その長さは人によって様々です。ですけれど、考え方は同じです。歳月が自然の経過をたどったとき、生命の終わりを迎えるのはごくあたりまえで、けっして悲しいことではありません。
きらきら輝きながら飛んでいた小さな命が、そう教えてくれました。私はそのことに深い幸福を感じました。
(ドロシーへの手紙『失われた森』レイチェル・カーソン著、古草秀子訳、集英社文庫)


自然科学者としてカーソンが、人間もまた生命系の一員として、死を受け入れることの自然さ、清明さを端的に表現している名文だなあと思い、いつも私は、この一節を心にとめています。(163~165頁)

この記事についてブログを書く
« 人生の一日(1月22日)……私の... | トップ | 近くの里山 ……オウレン、マ... »