昨日に続いてのブログ更新。
忙しい毎日ゆえ、
2日連続で更新することはあまりないのだが、
今日は特別。
池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』(山と溪谷社)のレビューを書くのに、
今日(2月15日)でなければならない理由があるのだ。
その理由は最後に書く。
最初に、著者である池田知沙子について、短く紹介する。
昭和22年7月29日、東京に生まれる。
21歳で、所属していた劇団の研究生同士だった池田俊樹と結婚。
28歳で夫婦ともども北海道に移り住み、帯広わらじの会に入会して登山を始める。
32歳、埼玉県新座市の現住所に居を構え、
翌昭和56年1月、浦和浪漫山岳会に入会以後、地域研究を標榜する当会とともに歩み、
奥利根、会越、下田・川内をはじめとする各地の山と谷に膨大な足跡を残す。
入会から18年を経た1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝。
享年51歳7ヶ月。
遺稿集の発行は、1年後の2000年冬に、
葬儀に参列した彼女の知人や山仲間、「池田知沙子を偲ぶ会」に出席してくれた人たちに配布するために編纂され、私家版として刊行された。
予想外の反響を呼び、2003年に増刊。(表紙の色が違う)
その残部も尽きて、現在に至っていたのだが、
彼女の文章を読んでみたいという声が多く寄せられ、
この度、山と溪谷社が、内容をそのままに新装版として復刊することが決まり、
今年(2013年)の1月下旬に出版された。
10数年前から、『みんなちさこの思うがままさ』という本があることは知っていた。
山の雑誌で時々採り上げられていたからだ。
だが、本そのものを読んだことはなかった。
『山と溪谷』2月号で、
『みんなちさこの思うがままさ』の新装版についての小特集が組まれていたので読んでみると、
とても興味をひかれる内容であった。
本の方もぜひ読んでみたいと思った。
そして、出版されると同時に買い求めた。
本の冒頭に、詩のような文章がある。
満天の星である。遠く稲光もする。
焚き火が燃えあがると、ひととき星の数が少なくなる。
美しい闇のただなかに沢音が確かなリズムをきざむ。
みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。
多分、私たちが寝静まった頃、
なんといっていいかわからないお月様が
静かに静かにめぐるのだろう。
「みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。」
この2行で、完全に魅了されてしまった。
なんて男前な文章を書くんだ。
こんな言葉を吐かれたら、
どんな男だってノックアウトされてしまう。
一気に読み終えた。
一気に読み終えるのが勿体ないほど素晴らしい文章だった。
付箋を貼った箇所をいくつか抜き出してみる。
季節は一瞬一瞬の積み重ねである。(77頁)
自分を見失う。このまま連れ去られ、はぐれて、もう二度と戻ってこられなくなりそうな気さえする。まばたきするたびに風景がかわり、動悸さえ聞こえてきかねない。(153頁)
森の向こうから、木枯らしが樹々を揺すりにやってくる。落葉が始まる。追い立てあって、渓を駆け、遠い空まで昇りつめようとする。交響曲・赤水沢、佳境。ピアニッシモからフォルテッシモ。足がふるふるするような演奏を聞かされた。
一心にナメ。そういう沢をいくつか知っているが、赤水沢はストラディバリウスだといってしまいましょう。やわらかな岩質がうみだすくぐもった沢床は、深い陰影を見せ、足首にも満たない流れが複雑な旋律をうたうのを見事に助けていました。(217頁)
風が樹冠にさざ波を立てて流れていく。ゆるやかなうねりで森全体が揺れていた。
ギラッと反転する魚の白い腹、ミズナラのてっぺんが光り、陰影の深くなった空は、さりげなく、森にひそむ暗がりの正体に気づかせる。
知らん顔して、ただ清流だけが弾けるように明るく輝いていた。
遠い遥かな記憶を呼びさます、畏敬を抱かずにはいられない世界が、たしかに、そこにあった。
私は小さな魚となって、いつしか臆病に樹間を泳ぎはじめる。(289頁)
これらの文章には、ヒリヒリするような感性がみてとれる。
これらの文章のほとんどが、所属していた山岳会の会報に書かれていたのだ。
驚くべき質の高さ。
普通、会報に書かれている山行報告は、面白味に欠けるものが多い。
乏しい語彙の画一的な自画自賛の山行報告を読み慣れた者には、
池田知沙子の文章は実に新鮮に映る。
池田知沙子が五十一歳で病没してから十四年の歳月が経つ。彼女が浦和浪漫山岳会に入会したのが八十一年の春で、亡くなったのが九十九年の厳冬だから、それ以前の集積が本書に収められていることになる。
昭和の末期から平成にいたる複雑な時代に書かれ、さらに死後の長い歳月を透過した、決して新しくはないはずの彼女の文章が、いま読み返していささかも色あせず、むしろ光さえ放って読む者に迫ってくるのはなぜなのか、と考えている。
とは、『山と溪谷』2月号に載った高桑信一氏(『みんなちさこの思うがままさ』の編纂者)の言葉であるが、私も同じ感想を抱く。
文章も魅力的だが、
人柄も、そして容姿も、
池田知沙子という女性は、実に魅力的であったらしい。
日よけと防虫ネット用に、つばの広い生成りの帽子を買った。新品の帽子は汚れ放題のザックや着古した服にはかなりアンバランスで囃される。
国境稜線でビバーグ。さっそく防虫ネットをつけてみる。すけた網がベールみたいで、本人はフェイ・ダナウェイかなんかのつもりでいて、「奥利根夫人」「マダム奥利根」とのからかいにも、にやにやと喜ぶばかり。
(11~12頁)
ねえ、熊ちゃん、知ってる? 一回でも一緒にと声かけてくれたら、私の山の約束帳にスタンプが押されてね、いずれ一緒に行ってもらうことになっているんです。スタンプの数? もう私の一生分あるの。自慢なんですねぇ、コレッ。(245頁)
いやはや、こんな素敵な女性、私の回りにいなくて良かった。
いたら、私は、人生を踏み外していたかもしれない。(笑)
この本に関しては、語りたいことがそれこそ山ほどあるが、
すべてを語ってしまったら、これから読む人の楽しみを奪うことになる。
もうこれくらいにしておこう。
最後に、この本のレビューが、
なぜ今日(2月15日)でなければならなかったのか?
それは、高桑信一氏によって書かれた「新装版のためのあとがき」にある。
かなうならこの本が、静かでもいいから多くのひとに、長く読み継がれて欲しいと希っている。
本書の奥付を池田知沙子の祥月命日にしたのは、出版に携わった関係者の小さなこだわりである。それが、この本に散りばめられた文章を私たちに与えてくれた彼女への、ささやかな返礼だと思うからである。
そう、池田知沙子の命日は、2月15日だったのだ。
池田知沙子は、1999(平成11)年2月15日に亡くなっていたのだ。
もう少しじっくり読み込んでからレビューを書こうと思っていたのだが、
私も命日に合わせてレビューを書いた。
もう少しちゃんとしたものを書こうと思ったが、
時間的にこの程度のものしか書けなかった。
すまない。
このブログで本の紹介をすることは稀だが、
今回は、自信を持ってオススメする。
再読、再々読にも堪えうる作品である。
山の好きな人なら、一生の友となるだろう。
ぜひぜひ。
忙しい毎日ゆえ、
2日連続で更新することはあまりないのだが、
今日は特別。
池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』(山と溪谷社)のレビューを書くのに、
今日(2月15日)でなければならない理由があるのだ。
その理由は最後に書く。
最初に、著者である池田知沙子について、短く紹介する。
昭和22年7月29日、東京に生まれる。
21歳で、所属していた劇団の研究生同士だった池田俊樹と結婚。
28歳で夫婦ともども北海道に移り住み、帯広わらじの会に入会して登山を始める。
32歳、埼玉県新座市の現住所に居を構え、
翌昭和56年1月、浦和浪漫山岳会に入会以後、地域研究を標榜する当会とともに歩み、
奥利根、会越、下田・川内をはじめとする各地の山と谷に膨大な足跡を残す。
入会から18年を経た1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝。
享年51歳7ヶ月。
遺稿集の発行は、1年後の2000年冬に、
葬儀に参列した彼女の知人や山仲間、「池田知沙子を偲ぶ会」に出席してくれた人たちに配布するために編纂され、私家版として刊行された。
予想外の反響を呼び、2003年に増刊。(表紙の色が違う)
その残部も尽きて、現在に至っていたのだが、
彼女の文章を読んでみたいという声が多く寄せられ、
この度、山と溪谷社が、内容をそのままに新装版として復刊することが決まり、
今年(2013年)の1月下旬に出版された。
10数年前から、『みんなちさこの思うがままさ』という本があることは知っていた。
山の雑誌で時々採り上げられていたからだ。
だが、本そのものを読んだことはなかった。
『山と溪谷』2月号で、
『みんなちさこの思うがままさ』の新装版についての小特集が組まれていたので読んでみると、
とても興味をひかれる内容であった。
本の方もぜひ読んでみたいと思った。
そして、出版されると同時に買い求めた。
本の冒頭に、詩のような文章がある。
満天の星である。遠く稲光もする。
焚き火が燃えあがると、ひととき星の数が少なくなる。
美しい闇のただなかに沢音が確かなリズムをきざむ。
みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。
多分、私たちが寝静まった頃、
なんといっていいかわからないお月様が
静かに静かにめぐるのだろう。
「みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。」
この2行で、完全に魅了されてしまった。
なんて男前な文章を書くんだ。
こんな言葉を吐かれたら、
どんな男だってノックアウトされてしまう。
一気に読み終えた。
一気に読み終えるのが勿体ないほど素晴らしい文章だった。
付箋を貼った箇所をいくつか抜き出してみる。
季節は一瞬一瞬の積み重ねである。(77頁)
自分を見失う。このまま連れ去られ、はぐれて、もう二度と戻ってこられなくなりそうな気さえする。まばたきするたびに風景がかわり、動悸さえ聞こえてきかねない。(153頁)
森の向こうから、木枯らしが樹々を揺すりにやってくる。落葉が始まる。追い立てあって、渓を駆け、遠い空まで昇りつめようとする。交響曲・赤水沢、佳境。ピアニッシモからフォルテッシモ。足がふるふるするような演奏を聞かされた。
一心にナメ。そういう沢をいくつか知っているが、赤水沢はストラディバリウスだといってしまいましょう。やわらかな岩質がうみだすくぐもった沢床は、深い陰影を見せ、足首にも満たない流れが複雑な旋律をうたうのを見事に助けていました。(217頁)
風が樹冠にさざ波を立てて流れていく。ゆるやかなうねりで森全体が揺れていた。
ギラッと反転する魚の白い腹、ミズナラのてっぺんが光り、陰影の深くなった空は、さりげなく、森にひそむ暗がりの正体に気づかせる。
知らん顔して、ただ清流だけが弾けるように明るく輝いていた。
遠い遥かな記憶を呼びさます、畏敬を抱かずにはいられない世界が、たしかに、そこにあった。
私は小さな魚となって、いつしか臆病に樹間を泳ぎはじめる。(289頁)
これらの文章には、ヒリヒリするような感性がみてとれる。
これらの文章のほとんどが、所属していた山岳会の会報に書かれていたのだ。
驚くべき質の高さ。
普通、会報に書かれている山行報告は、面白味に欠けるものが多い。
乏しい語彙の画一的な自画自賛の山行報告を読み慣れた者には、
池田知沙子の文章は実に新鮮に映る。
池田知沙子が五十一歳で病没してから十四年の歳月が経つ。彼女が浦和浪漫山岳会に入会したのが八十一年の春で、亡くなったのが九十九年の厳冬だから、それ以前の集積が本書に収められていることになる。
昭和の末期から平成にいたる複雑な時代に書かれ、さらに死後の長い歳月を透過した、決して新しくはないはずの彼女の文章が、いま読み返していささかも色あせず、むしろ光さえ放って読む者に迫ってくるのはなぜなのか、と考えている。
とは、『山と溪谷』2月号に載った高桑信一氏(『みんなちさこの思うがままさ』の編纂者)の言葉であるが、私も同じ感想を抱く。
文章も魅力的だが、
人柄も、そして容姿も、
池田知沙子という女性は、実に魅力的であったらしい。
日よけと防虫ネット用に、つばの広い生成りの帽子を買った。新品の帽子は汚れ放題のザックや着古した服にはかなりアンバランスで囃される。
国境稜線でビバーグ。さっそく防虫ネットをつけてみる。すけた網がベールみたいで、本人はフェイ・ダナウェイかなんかのつもりでいて、「奥利根夫人」「マダム奥利根」とのからかいにも、にやにやと喜ぶばかり。
(11~12頁)
ねえ、熊ちゃん、知ってる? 一回でも一緒にと声かけてくれたら、私の山の約束帳にスタンプが押されてね、いずれ一緒に行ってもらうことになっているんです。スタンプの数? もう私の一生分あるの。自慢なんですねぇ、コレッ。(245頁)
いやはや、こんな素敵な女性、私の回りにいなくて良かった。
いたら、私は、人生を踏み外していたかもしれない。(笑)
この本に関しては、語りたいことがそれこそ山ほどあるが、
すべてを語ってしまったら、これから読む人の楽しみを奪うことになる。
もうこれくらいにしておこう。
最後に、この本のレビューが、
なぜ今日(2月15日)でなければならなかったのか?
それは、高桑信一氏によって書かれた「新装版のためのあとがき」にある。
かなうならこの本が、静かでもいいから多くのひとに、長く読み継がれて欲しいと希っている。
本書の奥付を池田知沙子の祥月命日にしたのは、出版に携わった関係者の小さなこだわりである。それが、この本に散りばめられた文章を私たちに与えてくれた彼女への、ささやかな返礼だと思うからである。
そう、池田知沙子の命日は、2月15日だったのだ。
池田知沙子は、1999(平成11)年2月15日に亡くなっていたのだ。
もう少しじっくり読み込んでからレビューを書こうと思っていたのだが、
私も命日に合わせてレビューを書いた。
もう少しちゃんとしたものを書こうと思ったが、
時間的にこの程度のものしか書けなかった。
すまない。
このブログで本の紹介をすることは稀だが、
今回は、自信を持ってオススメする。
再読、再々読にも堪えうる作品である。
山の好きな人なら、一生の友となるだろう。
ぜひぜひ。