一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

黒髪山系 ……この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば……

2009年10月22日 | 黒髪山系
今日も佐世保の実家に行くことになっている。
早朝に家を出て、黒髪山系に立ち寄ることにした。
先週、「あの花」はまだ蕾だった。
一週間後の今日は、もう咲いているかもしれない。
それが楽しみだった。
10月も下旬となり、秋もかなり深まってきた。
低山の紅葉はまだまだだが、朝晩はめっきり冷え込んできた。
空も、空気も、風も、すっかり秋のものになっている。
高山の豪華絢爛な極彩色の紅葉ばかりが秋ではない。
里山の素朴な村や町にも、秋は静かにやってくる。
詩人・八木重吉(1898~1927)は、「素朴な琴」という詩で、このように表現している。

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう

私が所有して詩集は旺文社文庫で、学生時代に買ったものだ。
その解説で、郷原宏は次のように述べている。
《みればわかるように、この詩には、どんな思想もうたわれてはいない。そこにあるのはただ、秋の日の美しさと、それを美しいと感じる詩人の感受性だけである。しかも詩人は、その美しさについてひとことも説明しようとはしない。彼はただ「この明るさ」と書いているだけである。にもかかわらず、私たちはそこにどんなことばよりも確かな美の存在を感じることができる。すなわち、このたった一個の指示代名詞の向こうには、青く澄んだ日本の秋空が広がっている。秋空の高さは、そのまま八木重吉の詩の深さだ。秋をうたった詩人は多いが、一個の指示代名詞をこのように完璧にあつかった詩人は、八木重吉のほかにはいない》
この詩のなかの「秋の美しさ」は、豪華絢爛な紅葉などではない。
青く澄んだ秋空が広がっている、どこにでもある場所なのだ。
「素朴な琴」とは、八木重吉という詩人の「心」であり、「琴線」であろう。
そこに美しい秋を感じとる感性がありさえすれば、たとえどんな場所でも、「琴はしずかに鳴りいだす」のだろう。
ということで、今日は、八木重吉の詩集を携えて「あの花」に逢いに行こうと思う。

黒髪山系が近づいてくると、私の心は花と咲く。

うれしきは
こころ咲きいずる日なり
秋 山にむかいて うれいあれば
わがこころ 花と咲くなり
「咲く心」八木重吉


秋が呼ぶようなきがする
そのはげしさに耐えがたい日もある

空よ
そこのとこへ心をあずかってくれないか
しばらくそのみどりのなかへやすませてくれないか
「秋の空」八木重吉


はっきりと
もう秋だなとおもうころは
色色なものが好きになってくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行っていたいきがする
「木」八木重吉


まず最初に出逢ったのはツワブキの花。
薄暗い森の中でツワブキの花に出逢うと、なんだかホッとする。
心に灯りをともされたようで、嬉しくなる。
花言葉は、「秘めた想い」。


ヤマラッキョウの花は、先週よりも数が増えていた。


イブキジャコウソウがまだ咲いていた。


そして、あの花はというと……
咲いていました~


こころがたかぶってくる
わたしが花のそばへいって咲けといえば
花がひらくとおもわれてくる
「秋」八木重吉


花が 咲いた
秋の日の
こころのなかに 花がさいた
「秋の日の こころ」八木重吉


ただただ見つめている。


なんという目の贅沢。


なんという心の贅沢。


ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
(ここで遊ぼうかしら)
このひかりのなかで遊ぼう
「秋のひかり」八木重吉


秋はあかるくなりきった
この明るさの奥のほうに
しずかな響があるようにおもわれる
「響」八木重吉

この記事についてブログを書く
« 藤原新也『コスモスの影には... | トップ | 映画『クララ・シューマン ... »