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映画やTVドラマや小説などで、いろいろな感動的な人生が語られている。
それらを見て、あるいは読んで、自分の人生がなんと変化のないつまらないものなんだろうと考えている人も少なくないのではないだろうか?
劇的な出逢いもなければ、別れもないと……
だが、我々の日常生活の中にも、小説にでもできそうな感動的な物語が、本当はいくらでも転がっているのだ。
そう……気がつかないだけなのだ。
藤原新也の『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』は、それに気づかせてくれる貴重な一冊である。
私にとって、「この人の新刊書が出たら必ず読む」という「この人」の数はそう多くはない。
その多くはない「この人」の一人が藤原新也である。
【藤原新也】
1944年、福岡県生まれ。
東京芸術大学油絵科中退。
インドを振り出しにアジア各地を旅し、『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』などを著す。
他に主な著作として、『東京漂流』『メメント・モリ』『乳の海』『アメリカ』『沈思彷徨』『ディングルの入江』『藤原悪魔』『ロッキー・クルーズ』『鉄輪』『末法眼蔵』『なにも願わない手を合わせる』『渋谷』『黄泉の犬』『名前のない花』『日本浄土』など、
写真集に『少年の港』『日本景伊勢』『全東洋写真』『千年少女』『俗界富士』『バリの雫』『花音女』などがある。
第3回木村伊兵衛写真賞、第23回毎日芸術賞受賞。
最近のHPやブログを見ていると、素人でも鮮明な写真を掲載していることが多い。
でも、その画像のほとんどが嘘くさく感じられるのは何故だろう。
デジタルカメラは、御存知のように、光に反応する半導体素子を使って映像を電気信号に変換し、デジタルデータとしてフラッシュメモリなどの記憶媒体に記憶する装置である。
素人でも簡単に鮮明な写真を撮ることができる。
より高画質の画像にするために、画素数の多いカメラを使い、誰もが記録サイズを大きくして撮影する。
よって、暗部がつぶされ、鮮明であるが、現実味のない平板な画像になる。
深みがまるで無い。
藤原新也の写真は、それら素人の写真とは真逆のものだ。
暗部が再現されていて、深みがある。
彼も最近はデジタルカメラも使っているようだが、やはり素人の写真とはまったく違う。
単なる記録ではなく、一枚に写真の中に、いろんな思いや人生を読み取ることができる。
彼は優れた写真家であるばかりでなく、優れた観察者であり、卓越した文章作家でもある。
その観察者、作家としての資質がもっともよく表れたのが本書といえるだろう。
本書に収められているのは、
●尾瀬に死す
●コスモスの影にはいつも誰かが隠れている
●海辺のトメさんとクビワとゼロ
●ツインカップ
●車窓の向こうの人生
●あじさいのころ
●カハタレバナ
●さすらいのオルゴール
●街の喧騒に埋もれて消えるくらい小さくてかけがえのないもの
●トウキョウアリガト
●世界でたったひとつの手帳に書かれていること
●六十二本と二十一本のバラ
●運命は風に吹かれる花びらのよう
●夏のかたみ
の14編。
このうち、「夏のかたみ」を除く13編が、地下鉄に置かれるフリーペーパー「メトロ・ミニッツ」誌において連載されていたものだ(本書に収めるにあたって大幅に手を加えてある)。
フリーペーパーは、通勤・通学の途中などにさしたる理由もなく抜き取られ、すぐに読み捨てられる運命にある。
儚い命。
作者が書いた文章も、フリーペーパーに相応しく、名も無き人々のことだった。
だが、このフリーペーパーに載った藤原新也の文章を読み、
「記事を読みながら、思わず降りる駅を通り過ぎてしまった」
「会社に行ってもしばらくは頭の切り替えができず仕事が手につかなかった」
などの反響があったとか。
本書を読了し、私ももし地下鉄に乗って読んでいたら、「思わず降りる駅を通り過ぎてしまった」かもしれないと思った。
それほどの内容であった。
本書に収められている14編のほとんどが、藤原新也が見たり訊いたりした、普通の生活を営む男と女の交わりや別れの瞬間、生死の物語だ。
「別れ」や「喪失」には、「哀しみ」や「苦しみ」が伴う。
「哀しみ」や「苦しみ」には負のイメージがあるが、人間は時としてその「哀しみ」や「苦しみ」に救われ、癒される時もある。
著者は言う。
「哀しみもまた豊かさなのである」と。
暗部のない明るくクッキリとした写真がつまらないように、人生もまた暗部がなければ味気ないものになってしまうだろう。
●さすらいのオルゴール
コンビニやファストフード店のレジなどに立っている子は、誰もが腹話術の人形のようにマニュアル通りの受け答えをする。
客の方も目の前に生きものなど存在しないかのように無言のまま商品を受け取ってその場を立ち去る。
ごく普通に見られる光景だ。
このコンビニ文化に対する一種のレジスタンス(抵抗運動)として、藤原新也は、時々、レジでお金を払う時に声をかけるという。
「夜勤って眠くならない?」とか、
「この冷凍チャーハン食ったことある?」とか。
声をかけられた時のレジの子のリアクションが面白いのだそうだ。
ずっとマニュアルの言葉が身に付いていた子が、とつぜん声をかけられると、私的言語を発するまでの頭の切り替えがすぐにはできないらしいのだ。
ぼんやりしていたり、どぎまぎして声を詰まらせたり……
小さなパニックが起きるとか。
ある日……
彼は、小さなスーパーで初めて朝食のコロッケサンドを買った。
いつものようにレジの子に声をかける。
「寒くない? ずっとここにいると」
する彼女は小声で、
「ちょっと寒いです」と嬉しそうな笑顔を返したという。
このように個人的感情を表してくれた子は珍しかったので、彼は少なからず驚く。
それがきっかけで、その子と彼は、いつも笑顔を交わしたり、ちょっとしたほんの数秒間の会話をするようになった。
「夜が遅かったから今日は眠いよ」
「これチンしなくても食べられるの?」
「小銭がまた貯まっちゃって」
「夜勤は大変だね」
という感じの、何でもない日常会話がそれから3ヶ月くらい続いた。
そんなある日、レジで商品を彼女に渡した直後、小さなオルゴールの音が……
彼女はアラームにオルゴールの擬似音が鳴る腕時計をしていたのだ。
彼女はあわてて腕時計のプッシュボタンを押し音を止めた。
その小さな音楽は、彼女の面影と重なり合って、彼の中に妙にくっきりと記憶化された。
それからしばらく後、彼女は店から突然姿を消した。
仕事を辞めたのか……
転勤になったのか……
別に恋人と別れたとか肉親と死に別れたというような大袈裟なことでもないのに、気分はブルーに。
彼女の腕時計のオルゴールの音色を思い出しながら通りを歩いていた時、本当にオルゴールの音が聞こえはじめる。
あたりを見回す。
誰もいない。
空耳か……
耳を澄ます。
確かに聞こえる。
さて、結末は……
本書をお読み下さい。(笑)
この他、
●ツインカップ
●あじさいのころ
●カハタレバナ
などが強く印象に残ったが、どれもが珠玉の物語であった。
いつもは声をかけないような人に声をかけてみる、
いつもと違った通勤路、通学路を歩いてみる、
いつもと反対側の車窓を眺めてみる、
いつもと違った時間に街を歩いてみる、
そして、たまには人生を踏み外してみる。(笑)
たったそれだけのことで、こんな深い感動が生まれるとは……
いろんなことに気づかされる一冊です。
藤原新也オフィシャルサイト
※冒頭の写真は、藤原新也オフィシャルサイトから借用しました。