一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『Fukushima 50』 ……あのとき、現場では何が起きていたのか?……

2020年03月09日 | 映画


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本作は、
日本の観測史上最大の地震となった東日本大震災に伴う福島第一原発事故発生時、
発電所に留まって対応業務に従事した約50名の作業員たち、
通称「フクシマ50」の闘いを描いた物語である。
原作は、門田隆将のノンフィクション『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』。


監督は、『ホワイトアウト』『沈まぬ太陽』『柘榴坂の仇討』の若松節朗。


福島第一原発 1・2号機当直長・伊崎利夫を佐藤浩市が、
福島第一原発所長・吉田昌郎を渡辺謙が演じる他、


吉岡秀隆、安田成美、緒形直人、火野正平、平田満、萩原聖人、吉岡里帆、斎藤工、富田靖子、佐野史郎、段田安則、田口トモロヲ、堀部圭亮、篠井英介、中村ゆり、ダンカン、泉谷しげる、ダニエル・カールなどがキャストとして名を連ねている。


福島第一原発事故は、非常にデリケートな問題であり、
過剰に科学的であり、過剰に政治的でもある。
自然科学、工学的知識が必要であり、
どこに軸足を置いているかによって政治的な問題も発生する。
「プロパガンダ映画」の汚名を着せられることもある。

はたして『Fukushima 50』はどういう作品になっているのか……
期待半分、不安半分で、映画館に向かったのだった。



2011年3月11日午後2時46分、
マグニチュード9.0、最大震度7の地震が発生し、
それに伴う巨大な津波が福島第一原子力発電所(イチエフ)を襲う。
津波による浸水で全電源を喪失してステーション・ブラック・アウト(SBO)となり、


冷却不能の状況に陥った原子炉は、
このままではメルトダウン(炉心溶融)により想像を絶する被害がもたらされることは明らかだった。
1・2号機当直長の伊崎利夫(佐藤浩市)ら現場作業員は、原発内に残り、


原子炉の制御に奔走する。


全体指揮を執る所長の吉田昌郎(渡辺謙)は、
部下たちを鼓舞しながらも、


状況を把握しきれていない本店や官邸からの指示に怒りをあらわにする。


しかし、現場の奮闘もむなしく事態は悪化の一途をたどり、




近隣の人々は避難を余儀なくされてしまう。




官邸は、最悪の場合、被害範囲は、東京を含む半径250㎞、その対象人口は約5,000万人にのぼると試算。
それは東日本の壊滅を意味していた。
残された方法は“ベント”。
ベント(Vent)とは、原子炉の格納容器の中の“圧”を外に逃がすこと。
格納容器が安全の限界を超えて高温・高圧になったとき、
容器が爆発して放射能が飛散するのを防ぐために行うもので、
短時間に外気中に放射性物質が放出されるため、
周辺地域に放射能汚染をもたらすことでもある。
いまだ世界で実施されたことのないこの手段は、
電源がない今、これを手動で行わなければならない。
作業員たちが体ひとつで原子炉内に突入し、行う手作業なのだ。


外部と遮断され何の情報もない中、
ついに作戦は始まり、
死を覚悟した男たちが、原子炉建屋に突入して行くのだった……




2011年3月11日から、9年が経とうとしている。
東日本を襲った大地震と津波によって起きた福島第一原発事故は、
福島県のみならず、東北地方全体に未曾有の悲劇をもたらした。
事故当初、
全電源喪失、注水不能、放射線量増加、そして水素爆発……
刻々と伝えられる断片的な情報は、外側からのものばかりで、
内部で何が起きているのかが全く分からなかった。
マスメディアも、
「原発推進か」
「反原発か」
という論争に明け暮れ、
「あのとき、現場では何が起きていたのか?」
ということがほとんど報道されなかった。


事故の翌年(2012年11月)に刊行された、
『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(門田隆将・著)は、
「現場にいた人たちが、どう動き、何を感じ、どう闘っていたのか……」
を、福島第一原発所長であった吉田昌郎の行動を中心に描いたもので、
ヴェールに包まれたあの未曾有の大事故を、
当事者たちの実名で綴った画期的なノンフィクションであった。
ただ、著者の門田隆将がやや右寄りの人物であるため、(個人的見解)
私は用心しつつ読んだのであるが、
原発の是非を問うものではなかったし、
吉田昌郎のもと、使命感と郷土愛を持った人々が、
最後まで諦めることなく、壮絶な闘いをした物語として描いていて好感が持てた。
本書を原作として映像化された『Fukushima 50』も、
どちらかに偏ることなく、
発電所に残った作業員の奮闘を愚直なまでに描き、秀逸であった。


今回は表立って「原発反対!」とは作れませんでした。僕としては、死と隣り合わせに頑張ってくれた50人をしっかり描くことに徹したつもりです。ただ、日本は世界で唯一の被爆国だし、今回の震災で原子力を扱うのは本当に大変だと改めて感じたので、原発についてはもう一度リセットして考えてほしいと、個人的には思いました。(「Movie Walker」インタビュー)

と、若松節朗監督は語っていたが、
この映画を見れば、
原発というものがいかに人間の手に負えないものであるかが判るし、
作業員たちの行動のおかげで事態が収束したわけではないことも判る。(このことに関しては後述)



題材が題材だけに、出演には躊躇もあったと思うが、
出演を決めた理由を佐藤浩市は、次のように語る。


事故の対処に当たった作業員たちのことを、海外メディアが敬意を込めて“Fukushima 50”と呼んでいるのは耳にしていました。でも、日本ではことについて報道されることはほとんどなく、“Fukushima 50”という呼び名も、そして彼らのほとんどが地元の人間だったというのもあまり知られてないと思います。僕らはそれを伝えるメッセンジャーとなることに意味を感じました。(「ザテレビジョン」インタビュー)

一方、渡辺謙は、次のように語る。


これまでも吉田所長をモチーフにしたドキュメンタリー作品などのオファーはいくつかありました。しかし、俳優として何を届けられるのかを考えたとき、事実を伝えることも大事ですが、人間の生きざまみたいなものを映画というフレームでどう伝えていけるか。その意味でこの脚本は素晴らしかった。単に原発の是非を問うのではなく、人間の苦悩や家族に再会できた喜びがよく描かれている。出演を決めたのはこの脚本があったからこそです。(「ザテレビジョン」インタビュー)

渡辺謙が語るように、脚本が特に優れている。
事実を伝えるドキュメンタリーではなく、ちゃんと人間ドラマとして成立しているし、
感動作になっている。
科学的な知識がなくても解るようになっているのも好い。

この優れた脚本を、若松節朗監督はほぼ“順撮り”で撮影している。
それが功を奏している。

今回は(映画のストーリーに沿った)順撮りでしたから、俳優としては助かりましたね。5日間の出来事を2週間以上かけて撮りましたから、シーンを重ねるたびに自然と気持ちが入っていきました。(「ザテレビジョン」インタビュー)

と、語るのは、佐藤浩市だ。
気持ちが入るだけでなく、
5日間という時系列の中で、
俳優たちはどんどん疲れていって、顔も汚くなっていったという。
撮影中は予習や復習で睡眠時間もあまり取れず、
渡辺謙は椅子の座り方がだんだんと深くなり、
佐藤浩市は最後の方は床で寝ていたそうだ。
そのことは、映画鑑賞者にも伝わっていたし、
目は落ちくぼみ、不精ヒゲは生え、外見的にもリアルさが増し、
閉ざされた空間での苛立ちや緊張感までもが、より切実なものとして感じられた。



男優陣の活躍ばかりがクローズアップされがちだが、
女優たちの演技も見逃せない。
伊崎利夫の一人娘・伊崎遥香を演じた吉岡里帆、


伊崎利夫の妻・伊崎智子を演じた富田靖子、


福島第一原発 緊急対策室総務班職員・浅野真理を演じた安田成美が、
静かな凛とした演技で魅せる。



撮影は、
東京・調布の角川大映スタジオに作られたセットで行われており、
メインの舞台となる1・2号機中央制御室(中操)と、
緊急時対策室(緊対)のセットは、
広さはもちろんのこと、細部までリアリティが追求されており、
中操の壁に並ぶ計器は、50年もの間、操業していた原子力発電所とまったく同じデザインが再現されている。
一方で緊対は、前面の壁にいくつものTVモニターが取り付けられ、津波のニュース映像などが刻々と流れる。こちらもテーブルの位置や壁の色まで完璧に実物の緊対と同じように作られている。
その精工さは、イチエフ勤務経験のある人もセットを訪れ、あまりに実物と同じ光景に感動していたほど……という。



音楽も優れており、(担当は岩代太郎)
演奏は、東京フィルハーモニー交響楽団、


ヴァイオリンを五嶋龍、


チェロを長谷川陽子が務めている。



今年(2020年)の年末から来年(2021年)の年始にかけて発表される各映画賞で、
佐藤浩市、


渡辺謙、


安田成美、


若松節朗監督、


そして、
脚本を担当した前川洋一、
美術を担当した瀬下幸治、
音楽を担当した岩代太郎、
撮影を担当した江原祥二の各氏は、
何らかの賞を受賞するのは間違いないであろう。


最後に、

先程、

この映画を見れば、
原発というものがいかに人間の手に負えないものであるかが判るし、
作業員たちの行動のおかげで事態が収束したわけではないことも判る。(このことに関しては後述)

と書いたが、そのことについて、少し解説したいと思う。

水素爆発を起こした1、3号機に比べ2号機は、
3月14日夜まで冷却機能が維持されていた。
それは偶然と幸運がもたらしたものであったのだ。
14日正午にはRCIC(原子炉隔離時冷却系)が動きを止める。
そのため、ベントと同時に原子炉の圧力を格納容器へ逃がすSR弁を開く作業を行うが、
双方とも失敗、
2号機の操作は完全に行き詰まる。
原子炉の減圧ができず、原子炉の水位はどんどん下がっていく。
そして減圧しなければ消防車のポンプの水の圧力との関係から原子炉に水は入らない。
2号機には注水さえできなかった。
吉田調書にはこのときのことが、こう記されている。

私自身、パニックになっていました。(中略)廊下にも協力企業だとかいて、完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。(中略)ここで本当に死んだと思ったんです。

2号機のSR弁が開かず、全く水が注げないままメルトダウン、そして格納容器破壊のシナリオになってしまった場合、1号機と3号機に水が注げなくなってしまい、さらに使用済燃料プールへの対策が滞ってしまうことだった。まさに福島第一原発の最悪のシナリオだ。そしてそこから放出された放射性物質の影響で南におよそ10キロの所にある福島第二原発もオペレーション不能になれば、それこそ東日本全体が放射能に覆われてしまう。

2号機は最後まで原子炉格納容器の中の圧力を下げる緊急措置であるベントができず、
その結果、圧力に耐えきれなくなった格納容器の配管のつなぎ目が、
壊れたり、蓋の部分に隙間ができたりして、
断続的に放射性物質が漏れ出したのではないかとみられている。
こうして14日深夜、2号機から放射性物質が大量放出されたと推測され、
東京の渋谷でも通常の2倍もの放射線量を記録した。
だが、ベントができなかった謎について、実は現在でも解明されていないという。

さらに大きな謎がある。
放射性物質を大量放出した2号機だったが、
吉田所長が恐れた東日本壊滅という事態には至らなかったことだ。
2号機の格納容器の破損は部分的なもので、
そのため放射性物質漏洩は部分的なものとなったのだが、
なぜ、決定的に壊れなかったかについて、いまだによくわかっていない。
東京電力の対応とはほとんど無関係に、いつしか沈静化していったのだ。
このように、
事故の原因さえ分からず、様々な「謎」は何も解明されてはいない。
映画でも、ラスト近くで、そのことに言及しているが、
この映画を見れば、
原発というものがいかに恐ろしいものであるかが判るし、
いかに人間の手に負えないものであるかが判るのだ。
そういう意味で、
原発推進派の人にも、反原発派の人にも、
見てもらいたい作品なのである。
映画館で、ぜひぜひ。

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