昨年(2014年)公開された映画の中では、
呉美保監督の『そこのみにて光輝く』が、
最も心に残る作品であった。
(詳しくは、コチラとコチラを参照)
その呉美保監督の新作『きみはいい子』が、
6月27日(土)より全国公開された。
公開直後に見に行こうと思ったのだが、
その時点では佐賀県での上映館はなかった。
隣県・福岡県では(というか九州では)、
「ユナイテッド・シネマキャナルシティ13」でのみ公開されていたので、
福岡に行くついでにでも……と思っていたら、
いつの間にか上映終了していた。
その後、佐賀県でも「シアター・シエマ」での公開(8月22日公開)が決まり、
先日、2ヶ月遅れで、やっと見ることができたのだった。
原作は、
中脇初枝の『きみはいい子』(ポプラ社刊)。
【中脇初枝(なかわき はつえ)】
1974年1月1日、徳島県に生まれ。41歳(2015年9月現在)
高知県中村市(現・四万十市)に育つ。
高知県立中村高等学校在学中に、
第2回坊ちゃん文学賞を受賞してデビュー。
1996年、筑波大学卒業(専攻は民俗学)。
印象としては、非常に寡作な小説家というイメージで、
むしろ、絵本『こりゃまてまて』『あかいくま』など、
児童文学作家としての顔が目立っていたが、
ここ数年は、
『きみはいい子』(2012年5月 ポプラ社)
『わたしをみつけて』(2013年7月 ポプラ社)
『みなそこ』(2014年10月 新潮社)
『世界の果てのこどもたち』(2015年6月 講談社)と、
毎年1冊の割合で話題作を刊行し、
小説家としても充実期を迎えている。
なかでも『きみはいい子』は、
第28回坪田譲治文学賞を受賞し、
2013年の本屋大賞第4位に輝いた秀作。
刊行時に私もすでに読んでいたが、
読んでいる途中、
幾度となく涙したことを憶えている。
「サンタさんの来ない家」
「べっぴんさん」
「うそつき」
「こんにちは、さようなら」
「うばすて山」
の5編からなる児童虐待などをテーマとした連作短編集で、
映画は、この中から、
「サンタさんの来ない家」
「べっぴんさん」
「こんにちは、さようなら」
の3編から脚本を起こし、物語を構成していた。
岡野匡(高良健吾)は、桜ヶ丘小学校4年2組を受けもつ新米教師。
まじめだが優柔不断で、問題に真っ正面から向き合えない性格ゆえか、
児童たちはなかなか岡野の言うことをきいてくれず、学級崩壊状態。
大声を張り上げたり、ときには優しく語りかけたりしてみるが、
なかなかうまくいかない。
そんな中、岡野には一人、気になる生徒ができる。
それは、下校時間になってもいつも鉄棒の辺りにいて、家に帰らない生徒だった。
水木雅美(尾野真千子)は、夫が海外に単身赴任中のため、
3歳の娘・あやねとふたり暮らし。
ママ友らに見せる笑顔の陰で、
雅美は自宅でたびたびあやねに手をあげ、
自身も幼い頃親に暴力を振るわれていた過去をもっている。
同じマンションに住んでいるママ友の大宮陽子(池脇千鶴)は、
子供たちとうまく距離を取れているようで、明るく元気。
〈私はどうしてあんな風に自分の子供と関わることが出来ないんだろう……〉
雅美は時々、そんな視線で陽子のことを見ている自分を自覚している。
佐々木あきこ(喜多道枝)は、小学校へと続く坂道の家にひとりで暮らす老人。
買い物に行ったスーパーで、
お金を払わずに店を出たことを店員の櫻井和美(富田靖子)にとがめられ、
認知症が始まったのかと不安な日々をすごしている。
そんなある日、
自宅前を通学のために毎日通る自閉症の子どもが、
「家の鍵がない」と困っていたので、とりあえず家に入れ、母親に連絡する。
すると、やってきたのは、あのスーパーの店員・櫻井であった。
とあるひとつの町で、
それぞれに暮らす彼らはさまざまな局面で交差しながら、
思いがけない「出会い」と「気づき」によって、
新たな一歩を踏み出すことになる……
ひとつの町を舞台にした、いくつかの家族の物語で、
呉美保監督のこれまでの作品とは異なり、
ワンシーン、ワンシーンが短く、
それぞれの人物も登場時間が短いので、
最初はなかなか感情移入ができずに戸惑った。
だが、
丁寧に描かれたそれら短いシーンが心に堆積していくうちに、
いつしか涙があふれ、
心を揺さぶられている自分がいた。
やはり呉美保監督は優れた監督だと再認識させられた。
新米教師・岡野匡を演じた高良健吾。
今年の初めに見た『悼む人』(2015年2月14日公開)の印象が強烈で、
映画を鑑賞した当時よりも、
現在の方が、印象がより強くなっている気がする。
時間の経過と共に、印象が薄まっていくのが普通だが、
高良健吾という男優はそうはさせない個性を持っている。
本作『きみはいい子』でも、鮮烈な印象を残す。
ことに、ラストシーンの演技は、秀逸。
(このラストシーンについては後述)
この映画では、抱きしめること、抱きしめられることの大切さが描かれているが、
岡野が、子どもたちに、
「今日、帰ってから、家族の誰かに抱きしめてもらうこと」
という宿題を出すシーンがある。
翌日、子どもたちにその感想を語ってもらうのだが、
その場面はたぶんセリフは用意されてはいなくて、
実際に体験した感想を子どもたちは語っているように感じた。
その感想に対して、
岡野(高良健吾)もまた、その場で、即興で感想を述べているように感じた。
そこだけが、なんだかドキュメンタリーのようで、ドキドキさせられた。
ラストシーンと同じく、そのときの高良健吾の表情もすごく良かった。
わが子に虐待を繰り返す母親・水木雅美を演じた尾野真千子。
『そして父になる』(2013年9月28日公開)以来の深刻なドラマで、
わが子を虐待するという難しい役柄だったので、オファーがきたときは躊躇したそうだ。
わたしは台本を読んで、「あ、虐待か」と思い、悩みました。正直なところ、やりたくないと思ったので。でも、読み進めていったら、最後は希望のある結末で、救われたんです。だから、演じることに意味があると思った。「虐待」だけを取り上げられてしまうと、何か引いてしまうし、単純にキレイに話をまとめて終わりだとダメだと思うんですが、そうではなくて「ああ、これからなんだな」というリアルで、気持ちのいい終わり方になっているので、これはやって絶対に意味があると思ったんです。
演技ではあっても、やはり子どもに暴力をふうるのは嫌だったそうで、
葛藤しながらの演技であったようだ。
それでも、映画を見ている限り、尾野真千子の演技はリアルで、
観る者をゾッとさせるほどの迫力があった。
尾野真千子の演技も素晴らしかったが、
(あえて言うなら)それ以上に素晴らしかったのが、
雅美のママ友・大宮陽子を演じた池脇千鶴だった。
呉美保監督作品『そこのみにて光輝く』に続いての出演だが、
前作の主演に対して、本作では脇役。
だが、本作においていちばん輝いていたのは彼女だったのではないかと思われるほど、
池脇千鶴の演技は良かった。
自らも暗い過去を持ちながら、
それでも明るくふるまう彼女に観る者は励まされる。
池脇千鶴の演技も自然で、わざとらしさがなく、秀逸であった。
ラスト近く、
陽子(池脇千鶴)が雅美(尾野真千子)を抱きしめるシーンがあるのだが、
私は涙が止まらなかった。
昨年は、私の主催する(コラコラ)「一日の王」映画賞で、
池脇千鶴を最優秀主演女優賞に選んだが、
今年は、最優秀助演女優賞の有力候補になることは間違いない。
池脇千鶴と高橋和也が夫婦役を演じているのだが、(間接的に表現されている)
これは、呉美保監督の粋な計らいであったらしい。
なぜなら、前作『そこのみにて光輝く』では、
この二人はドロドロに憎しみ合う関係だったからだ。
表現として直接的に描いてはいないんですが、(尾野さん演じる)「雅美」にとって(池脇さん演じる)「陽子」があるように、「陽子」にとって、高橋さん演じる「大宮先生」との出会いがあったから、笑っていられる。そういうことをなんとなく感じてもらえたら、人と人がつながって生きている感じが描けるのかなと思い、願いを込めて「夫婦」になってもらいました。
呉美保監督がこう語るように、
前作を見ている者には、ホッと心が温まるようなキャスティングが嬉しい。
ひとり暮らしの老人・佐々木あきこを演じた喜多道枝。
1935年3月11日生まれとのことなので、現在80歳。(2015年9月現在)
女優としてよりも、
声優としての方が有名で、
キャリアも50年以上になるようだ。
アニメ『フランダースの犬』で、
主役のネロの他に、
アロア、ジョルジュ、ポール、アロアの母、ネロの祖父、ヌレットおばさん、ナレーター役の1人8役を演じて、
『たけしの万物創世紀』で、「声優の神業」として紹介されてもいる。
本作『きみはいい子』では、
認知症になったのではないかと不安を抱えた老人を、
それこそ神業的な演技で観る者をうならせる。
なにもかも超越したような演技で、
もう演技でもないのかもしれない。
これほど素晴らしい女優がまだ日本に残っていたとは……
「一日の王」映画賞の最優秀助演女優賞は、
(池脇千鶴は前回最優秀主演女優賞を受賞しているので)喜多道枝に決めてもいいかなと思えるほどの演技であった。
映画『きみはいい子』は、
作品の素晴らしさもさることながら、
そして、高良健吾や尾野真千子の演技もさることながら、
真に見るべきは、池脇千鶴と喜多道枝の演技ではないかと思われる。
それほど、池脇千鶴と喜多道枝の演技は傑出していたと言っていい。
みなさんも、ぜひぜひ。
最後に、ラストシーンについて。
このラストシーンについては、少しネタバレになると思います。
映画鑑賞予定の方は、鑑賞後にお読み下さるよう、お願い致します。
映画『きみはいい子』は、
新米教師・岡野が、
義理の父親に虐待を受けているらしい神田さんの家まで走って行き、
(先生は、相手が小学1年生であっても、「さん」づけで呼ばなくてはならないらしい)
ドアの前に佇み、
ドアを叩くところで突然に終わる。
前作『そこのみにて光輝く』と同様に、
鮮烈な印象を残すラストではあるのだが、
このラストシーンには賛否両論あるらしく、
あまりに唐突に映画が終了するので、
やや「尻切れトンボ」感が否めない映画鑑賞者も少なからずいるらしいのだ。
説明不足と言う人もいるようだ。
このことに関し、呉美保監督は次のように語っている。
“人生は続く”、
それがこの映画では描きたかったことのひとつです。
疑問を残すような終わり方にあえてしているのですが、
そこを結論づけていろんなことを丸くおさめるような作品ではないと思っているので、
人生は続く、
続けていかなければいけないんだと思ってもらえるようなラストシーンにしました。
見た方に想像していただきたい、
見終わったあとにほかの人と語り合って欲しい。
また、別のところでは、こうも語っている。
いつも映画のラストで想いたいのは、「そして人生は続く」という気持ち。
今日という一日が終わるときにふと訪れる感覚を私は描いていきたいと思っています。
「続くこと」はしんどいかもしれない。
でも、「続く」かぎり、生きなければいけない。
『きみはいい子』に登場する人たちの人生もまた続いていきます。
ここに出てくる人は、誰ひとりとして、うまく生きられていません。
でも、みんな、そうなのだと思います。
この映画を観た人それぞれが、
自分にとってのしあわせについて思いめぐらせていただけたなら、
こんなにうれしいことはありません。
原作である小説の方はどうなっているかというと……
これも、同じような終わり方をしている。
少し長くなるが、引用してみよう。
アパートの駐車場には、見おぼえのある改造車が停まっていた。あの男は家にいる。
ぼくは神田さんの家の扉の前まで来て、やっと足をとめた。上がった息を整える。学校からずっと、走ってきたのだ。
扉の横の壁に、学校の黄色い傘が立てかけてあった。今度の雨に神田さんがぬれないようにと願った、ぼくの思いがそのままあった。
ぼくは玄関ブザーを押した。
なにも音がしない。
もう一度押した。
うんともすんともいわない。
このブザーは壊れていた。この家は、外の世界とつながりを持つことを拒んでいた。
ぼくはだめ教師だから、クラスのこどもたちさえ救えない。世界を救うことはもちろんできない。
だけど、この子を救うことはできるかもしれない。
今、ぼくにできる、たったひとつのこと。
ぼくはこぶしをにぎりしめ、思いきり、扉をたたいた。
余韻を残しながら終わり、
鑑賞後は、それぞれが自由に想像し、
あるいは同行者と語り合うのが良いのではないかと思う。
映画のロケ地は小樽。
(高良健吾は約1ヶ月、一度も家に帰らず小樽に住んでいたそうだ)
前作『そこのみにて光輝く』も函館ロケであったように、
呉美保監督は、北海道が、
そして、坂道のある港町が好きなのかもしれない。
小樽は、私にとっても思い出(←クリック)のある懐かしい町。
北海道が好きな人にはオススメの映画でもある。
九州では、現在上映中の映画館や、
福岡「ユナイテッド・シネマなかま16」8月22日~
福岡「ユナイテッド・シネマトリアス久山」8月22日~
長崎「ユナイテッド・シネマ長崎」8月22日~
これから上映予定の映画館もある。
大分「別府ブルーバード劇場」9月19日~
大分「日田シネマテークリベルテ」9月5日~
熊本「本渡第一映劇」11月7日~
全国的にも、これから上映を予定している映画館も多いので、
機会がありましたら、ぜひぜひ。
呉美保監督の『そこのみにて光輝く』が、
最も心に残る作品であった。
(詳しくは、コチラとコチラを参照)
その呉美保監督の新作『きみはいい子』が、
6月27日(土)より全国公開された。
公開直後に見に行こうと思ったのだが、
その時点では佐賀県での上映館はなかった。
隣県・福岡県では(というか九州では)、
「ユナイテッド・シネマキャナルシティ13」でのみ公開されていたので、
福岡に行くついでにでも……と思っていたら、
いつの間にか上映終了していた。
その後、佐賀県でも「シアター・シエマ」での公開(8月22日公開)が決まり、
先日、2ヶ月遅れで、やっと見ることができたのだった。
原作は、
中脇初枝の『きみはいい子』(ポプラ社刊)。
【中脇初枝(なかわき はつえ)】
1974年1月1日、徳島県に生まれ。41歳(2015年9月現在)
高知県中村市(現・四万十市)に育つ。
高知県立中村高等学校在学中に、
第2回坊ちゃん文学賞を受賞してデビュー。
1996年、筑波大学卒業(専攻は民俗学)。
印象としては、非常に寡作な小説家というイメージで、
むしろ、絵本『こりゃまてまて』『あかいくま』など、
児童文学作家としての顔が目立っていたが、
ここ数年は、
『きみはいい子』(2012年5月 ポプラ社)
『わたしをみつけて』(2013年7月 ポプラ社)
『みなそこ』(2014年10月 新潮社)
『世界の果てのこどもたち』(2015年6月 講談社)と、
毎年1冊の割合で話題作を刊行し、
小説家としても充実期を迎えている。
なかでも『きみはいい子』は、
第28回坪田譲治文学賞を受賞し、
2013年の本屋大賞第4位に輝いた秀作。
刊行時に私もすでに読んでいたが、
読んでいる途中、
幾度となく涙したことを憶えている。
「サンタさんの来ない家」
「べっぴんさん」
「うそつき」
「こんにちは、さようなら」
「うばすて山」
の5編からなる児童虐待などをテーマとした連作短編集で、
映画は、この中から、
「サンタさんの来ない家」
「べっぴんさん」
「こんにちは、さようなら」
の3編から脚本を起こし、物語を構成していた。
岡野匡(高良健吾)は、桜ヶ丘小学校4年2組を受けもつ新米教師。
まじめだが優柔不断で、問題に真っ正面から向き合えない性格ゆえか、
児童たちはなかなか岡野の言うことをきいてくれず、学級崩壊状態。
大声を張り上げたり、ときには優しく語りかけたりしてみるが、
なかなかうまくいかない。
そんな中、岡野には一人、気になる生徒ができる。
それは、下校時間になってもいつも鉄棒の辺りにいて、家に帰らない生徒だった。
水木雅美(尾野真千子)は、夫が海外に単身赴任中のため、
3歳の娘・あやねとふたり暮らし。
ママ友らに見せる笑顔の陰で、
雅美は自宅でたびたびあやねに手をあげ、
自身も幼い頃親に暴力を振るわれていた過去をもっている。
同じマンションに住んでいるママ友の大宮陽子(池脇千鶴)は、
子供たちとうまく距離を取れているようで、明るく元気。
〈私はどうしてあんな風に自分の子供と関わることが出来ないんだろう……〉
雅美は時々、そんな視線で陽子のことを見ている自分を自覚している。
佐々木あきこ(喜多道枝)は、小学校へと続く坂道の家にひとりで暮らす老人。
買い物に行ったスーパーで、
お金を払わずに店を出たことを店員の櫻井和美(富田靖子)にとがめられ、
認知症が始まったのかと不安な日々をすごしている。
そんなある日、
自宅前を通学のために毎日通る自閉症の子どもが、
「家の鍵がない」と困っていたので、とりあえず家に入れ、母親に連絡する。
すると、やってきたのは、あのスーパーの店員・櫻井であった。
とあるひとつの町で、
それぞれに暮らす彼らはさまざまな局面で交差しながら、
思いがけない「出会い」と「気づき」によって、
新たな一歩を踏み出すことになる……
ひとつの町を舞台にした、いくつかの家族の物語で、
呉美保監督のこれまでの作品とは異なり、
ワンシーン、ワンシーンが短く、
それぞれの人物も登場時間が短いので、
最初はなかなか感情移入ができずに戸惑った。
だが、
丁寧に描かれたそれら短いシーンが心に堆積していくうちに、
いつしか涙があふれ、
心を揺さぶられている自分がいた。
やはり呉美保監督は優れた監督だと再認識させられた。
新米教師・岡野匡を演じた高良健吾。
今年の初めに見た『悼む人』(2015年2月14日公開)の印象が強烈で、
映画を鑑賞した当時よりも、
現在の方が、印象がより強くなっている気がする。
時間の経過と共に、印象が薄まっていくのが普通だが、
高良健吾という男優はそうはさせない個性を持っている。
本作『きみはいい子』でも、鮮烈な印象を残す。
ことに、ラストシーンの演技は、秀逸。
(このラストシーンについては後述)
この映画では、抱きしめること、抱きしめられることの大切さが描かれているが、
岡野が、子どもたちに、
「今日、帰ってから、家族の誰かに抱きしめてもらうこと」
という宿題を出すシーンがある。
翌日、子どもたちにその感想を語ってもらうのだが、
その場面はたぶんセリフは用意されてはいなくて、
実際に体験した感想を子どもたちは語っているように感じた。
その感想に対して、
岡野(高良健吾)もまた、その場で、即興で感想を述べているように感じた。
そこだけが、なんだかドキュメンタリーのようで、ドキドキさせられた。
ラストシーンと同じく、そのときの高良健吾の表情もすごく良かった。
わが子に虐待を繰り返す母親・水木雅美を演じた尾野真千子。
『そして父になる』(2013年9月28日公開)以来の深刻なドラマで、
わが子を虐待するという難しい役柄だったので、オファーがきたときは躊躇したそうだ。
わたしは台本を読んで、「あ、虐待か」と思い、悩みました。正直なところ、やりたくないと思ったので。でも、読み進めていったら、最後は希望のある結末で、救われたんです。だから、演じることに意味があると思った。「虐待」だけを取り上げられてしまうと、何か引いてしまうし、単純にキレイに話をまとめて終わりだとダメだと思うんですが、そうではなくて「ああ、これからなんだな」というリアルで、気持ちのいい終わり方になっているので、これはやって絶対に意味があると思ったんです。
演技ではあっても、やはり子どもに暴力をふうるのは嫌だったそうで、
葛藤しながらの演技であったようだ。
それでも、映画を見ている限り、尾野真千子の演技はリアルで、
観る者をゾッとさせるほどの迫力があった。
尾野真千子の演技も素晴らしかったが、
(あえて言うなら)それ以上に素晴らしかったのが、
雅美のママ友・大宮陽子を演じた池脇千鶴だった。
呉美保監督作品『そこのみにて光輝く』に続いての出演だが、
前作の主演に対して、本作では脇役。
だが、本作においていちばん輝いていたのは彼女だったのではないかと思われるほど、
池脇千鶴の演技は良かった。
自らも暗い過去を持ちながら、
それでも明るくふるまう彼女に観る者は励まされる。
池脇千鶴の演技も自然で、わざとらしさがなく、秀逸であった。
ラスト近く、
陽子(池脇千鶴)が雅美(尾野真千子)を抱きしめるシーンがあるのだが、
私は涙が止まらなかった。
昨年は、私の主催する(コラコラ)「一日の王」映画賞で、
池脇千鶴を最優秀主演女優賞に選んだが、
今年は、最優秀助演女優賞の有力候補になることは間違いない。
池脇千鶴と高橋和也が夫婦役を演じているのだが、(間接的に表現されている)
これは、呉美保監督の粋な計らいであったらしい。
なぜなら、前作『そこのみにて光輝く』では、
この二人はドロドロに憎しみ合う関係だったからだ。
表現として直接的に描いてはいないんですが、(尾野さん演じる)「雅美」にとって(池脇さん演じる)「陽子」があるように、「陽子」にとって、高橋さん演じる「大宮先生」との出会いがあったから、笑っていられる。そういうことをなんとなく感じてもらえたら、人と人がつながって生きている感じが描けるのかなと思い、願いを込めて「夫婦」になってもらいました。
呉美保監督がこう語るように、
前作を見ている者には、ホッと心が温まるようなキャスティングが嬉しい。
ひとり暮らしの老人・佐々木あきこを演じた喜多道枝。
1935年3月11日生まれとのことなので、現在80歳。(2015年9月現在)
女優としてよりも、
声優としての方が有名で、
キャリアも50年以上になるようだ。
アニメ『フランダースの犬』で、
主役のネロの他に、
アロア、ジョルジュ、ポール、アロアの母、ネロの祖父、ヌレットおばさん、ナレーター役の1人8役を演じて、
『たけしの万物創世紀』で、「声優の神業」として紹介されてもいる。
本作『きみはいい子』では、
認知症になったのではないかと不安を抱えた老人を、
それこそ神業的な演技で観る者をうならせる。
なにもかも超越したような演技で、
もう演技でもないのかもしれない。
これほど素晴らしい女優がまだ日本に残っていたとは……
「一日の王」映画賞の最優秀助演女優賞は、
(池脇千鶴は前回最優秀主演女優賞を受賞しているので)喜多道枝に決めてもいいかなと思えるほどの演技であった。
映画『きみはいい子』は、
作品の素晴らしさもさることながら、
そして、高良健吾や尾野真千子の演技もさることながら、
真に見るべきは、池脇千鶴と喜多道枝の演技ではないかと思われる。
それほど、池脇千鶴と喜多道枝の演技は傑出していたと言っていい。
みなさんも、ぜひぜひ。
最後に、ラストシーンについて。
このラストシーンについては、少しネタバレになると思います。
映画鑑賞予定の方は、鑑賞後にお読み下さるよう、お願い致します。
映画『きみはいい子』は、
新米教師・岡野が、
義理の父親に虐待を受けているらしい神田さんの家まで走って行き、
(先生は、相手が小学1年生であっても、「さん」づけで呼ばなくてはならないらしい)
ドアの前に佇み、
ドアを叩くところで突然に終わる。
前作『そこのみにて光輝く』と同様に、
鮮烈な印象を残すラストではあるのだが、
このラストシーンには賛否両論あるらしく、
あまりに唐突に映画が終了するので、
やや「尻切れトンボ」感が否めない映画鑑賞者も少なからずいるらしいのだ。
説明不足と言う人もいるようだ。
このことに関し、呉美保監督は次のように語っている。
“人生は続く”、
それがこの映画では描きたかったことのひとつです。
疑問を残すような終わり方にあえてしているのですが、
そこを結論づけていろんなことを丸くおさめるような作品ではないと思っているので、
人生は続く、
続けていかなければいけないんだと思ってもらえるようなラストシーンにしました。
見た方に想像していただきたい、
見終わったあとにほかの人と語り合って欲しい。
また、別のところでは、こうも語っている。
いつも映画のラストで想いたいのは、「そして人生は続く」という気持ち。
今日という一日が終わるときにふと訪れる感覚を私は描いていきたいと思っています。
「続くこと」はしんどいかもしれない。
でも、「続く」かぎり、生きなければいけない。
『きみはいい子』に登場する人たちの人生もまた続いていきます。
ここに出てくる人は、誰ひとりとして、うまく生きられていません。
でも、みんな、そうなのだと思います。
この映画を観た人それぞれが、
自分にとってのしあわせについて思いめぐらせていただけたなら、
こんなにうれしいことはありません。
原作である小説の方はどうなっているかというと……
これも、同じような終わり方をしている。
少し長くなるが、引用してみよう。
アパートの駐車場には、見おぼえのある改造車が停まっていた。あの男は家にいる。
ぼくは神田さんの家の扉の前まで来て、やっと足をとめた。上がった息を整える。学校からずっと、走ってきたのだ。
扉の横の壁に、学校の黄色い傘が立てかけてあった。今度の雨に神田さんがぬれないようにと願った、ぼくの思いがそのままあった。
ぼくは玄関ブザーを押した。
なにも音がしない。
もう一度押した。
うんともすんともいわない。
このブザーは壊れていた。この家は、外の世界とつながりを持つことを拒んでいた。
ぼくはだめ教師だから、クラスのこどもたちさえ救えない。世界を救うことはもちろんできない。
だけど、この子を救うことはできるかもしれない。
今、ぼくにできる、たったひとつのこと。
ぼくはこぶしをにぎりしめ、思いきり、扉をたたいた。
余韻を残しながら終わり、
鑑賞後は、それぞれが自由に想像し、
あるいは同行者と語り合うのが良いのではないかと思う。
映画のロケ地は小樽。
(高良健吾は約1ヶ月、一度も家に帰らず小樽に住んでいたそうだ)
前作『そこのみにて光輝く』も函館ロケであったように、
呉美保監督は、北海道が、
そして、坂道のある港町が好きなのかもしれない。
小樽は、私にとっても思い出(←クリック)のある懐かしい町。
北海道が好きな人にはオススメの映画でもある。
九州では、現在上映中の映画館や、
福岡「ユナイテッド・シネマなかま16」8月22日~
福岡「ユナイテッド・シネマトリアス久山」8月22日~
長崎「ユナイテッド・シネマ長崎」8月22日~
これから上映予定の映画館もある。
大分「別府ブルーバード劇場」9月19日~
大分「日田シネマテークリベルテ」9月5日~
熊本「本渡第一映劇」11月7日~
全国的にも、これから上映を予定している映画館も多いので、
機会がありましたら、ぜひぜひ。