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今日は「敬老の日」。
総務省が15日に発表した人口推計によると、
65歳以上の高齢者は前年比2万人増の3625万人と過去最高を更新したとか。
総人口に占める割合も、過去最高の29.3%。
2023年の日本人の平均寿命は、男性81.09歳、女性87.14歳で、
世界の国や地域とくらべると男性は5位、女性は1位である。
※平均寿命とは「0歳における平均余命」のことで、その年に(この場合2023年に)生まれた乳幼児が生存するだろうと考えられる平均年数のこと。
一方、制限なく日常生活を送れる期間、すなわち健康寿命は、
2019年のデータで男性72.68歳、女性75.38歳となっている。
今夏70歳になった私は、平均寿命まで11年、健康寿命まで2年ちょっとになった。
嗚呼。
私の住む町の町内会では、毎年「敬老の日」に、公民館で「敬老会」が開催される。
料理がふるまわれ、お祝いの饅頭がもらえることになっている。
で、先日、(70歳になった私に)この「敬老会」へのお誘いの連絡があった。(爆)
〈お誘いは後期高齢者の75歳から……〉
と漠然と思っていたので、ビックリした。
いつの間にか私も「敬老会」へ呼ばれる年齢になっていたのだ。
80代、90代の高齢者たちに混じって和気藹々と食事をしている私を想像してみるが、
なかなかそのイメージが湧かず、今回は丁重にお断りした。
嗚呼。
「暦が還る」還暦(60歳)を人生の再スタート地点だとすれば、
60歳から69歳までは、二度目の0歳から9歳、
70歳から79歳は、二度目の10歳から19歳ということで、
70歳の私は、二度目の10代を迎えているということになる。(詳しくはコチラを参照)
なので、これからは、
(一度目の10代と同じく)「読書」を中心にした10年にしようと思っている。
このように、大きく10年間というスパンでものを考えてもいるが、
水上勉さんの『一日暮し』、
山本ふみこさんの『あさってより先は、見ない』、
アルボムッレ・スマナサーラさんの『70歳から楽になる』などの、
積極的な「その日暮らし」や、
「今死ねるか?」を毎日問い続ける……という考えにも共感しているので、
“今日一日だけ”という短いスパンで人生を考えてもいる。
それでも、
「10年後も確実に生きている」と思ってのんびり暮らしているわけではないし、
まさか「今日死ぬかも」と思って切羽詰まったように生きているわけでもない。
“心構え”としてそのように思い、生活しているということだ。
先日、
久坂部羊著『寿命が尽きる2年前』(幻冬舎新書)という本を読んだ。
【久坂部羊】(くさかべよう)
一九五五年、大阪府生まれ。医師・作家。大阪大学医学部卒業。二〇〇三年、デイケアや在宅医療など高齢者医療に携わりながら書いた小説『廃用身』でデビュー。第二作『破裂』が「平成版『白い巨塔』」と絶賛され、一〇万部を超えるベストセラーとなる。他の小説作品に『無痛』『第五番』『芥川症』『MR』等がある。一四年『悪医』で第三回日本医療小説大賞を受賞。小説外の作品として『大学病院のウラは墓場』『日本人の死に時』『ブラック・ジャックは遠かった』『医療幻想』『人はどう死ぬのか』等がある。
この本は、
「2年後に死ぬとわかったら、あなたは何を想うでしょう?」と問いかけている。
人がいつ死ぬのか、たいていはわかりません。自分が二年後に死ぬとわかったら、あと二年しかいきられないのかと、絶望する人もいるでしょうが、まだ二年も生きなければならないのかと、嘆息する人もいるはずです。(高齢者医療の現場では、長生きのつらさに耐えかねて、“死にたい願望”を持つ人が少なくありません)。
当たり前のことですが、だれしも寿命が尽きる二年前を通過して、死に至ります。それがいつなのかわからないので、みんな気づきませんが、実はその時点で、“いつまでも元気で長生き”という言葉は意味を失っています。(5~6頁)
“いつまでも元気で長生き”よりももっと大切なものがあるはず……と訴え、
人生最後の二年間をどう過ごせばいいのかを提案する。
誰しも、「長生き」は良き事と思っているものだが、はたしてそうだろうか?
私は長年、高齢者医療の現場にいたので、超高齢の患者さんをたくさん診察してきました。そこで目にしたさまざまな困難、苦痛、悲惨さを思うと、あまり長生きはしたくない、ほどほどで死ぬのがよいと、切実に思います。
自宅で寝たきりで、身動きできずに、胃ろうから流動食を注入されて、ただ死ぬ日を待つだけの人や、施設に入れられ、車椅子に乗せられて、無言無動のまま、かけっぱなしのビデオの前に放置される人、大便を失禁して、自分で片付けようとして便で足をすべらせ、便のついた足で歩きまわって畳を便だらけにした人、仙骨部にできた巨大な褥瘡が悪化して、壊死した組織が悪臭を放ち、肉が崩れて骨が露出した人、肺気腫で呼吸困難が続き、トイレに這って行くだけで息も絶え絶えになる人、パーキンソン病や脊髄小脳変性症で、思い通りに手が動かず、食事を口に運ぶだけでもたいへんな苦労をする人……
そういう現実をみれば、だれだって極端な長生きはしたくないと思うにちがいありません。
つまり、長生きをしたいと思っているのは、まだ長生きしていない人だけで、実際に長生きしたら、思わぬ困難にたじろく人が多い気がします。(37~38頁)
「年金受給年齢を引き上げたい」政府と、
「不安を煽って儲けたい」保険会社などの思惑が一致し、
ありえない「人生100年時代」が、
さも、すぐそこに到来しているかのような錯覚を起こさせているが、
日本人(男性)の場合、(極私的調査によると)
60歳で、約1割、
70歳で、約2割、
80歳で、約4割、
90歳で、約8割、
(言葉は悪いが)10年ごとに「倍々ゲーム」で亡くなっており、
「人生100年時代」なんて大嘘なのである。
では、(可能性は低いものの)実際に100歳近くまで生きたらどうなるのか?
百歳近くまで生きれば、だれでも呼吸機能や消化機能、心機能に嚥下機能、それに排泄機能などが低下し、筋力も弱り、歩行困難、起立困難、姿勢保持困難となり、歯は抜け落ち、入れ歯も合わなくなり、背中は曲がり、あちこちの関節が痛んだり拘縮したりして、頭痛、耳鳴り、めまい、不眠、唾液分泌の減少、便秘と下痢、風呂も自分で入れず、着替えもままならず、けいれん、こむら返りなどに苦しめられるのがふつうです。
視力も低下し、聴力も落ち、味覚も嗅覚も鈍って、おいしいものを食べても味わえず、耳が遠くなれば会話も音楽も楽しめず、老眼になれば本も読めず、手が震えて文字も書けず、キーボードはミスタッチが頻発して、メールなどもあとで読み返したら誤字脱字だらけになってしまいます。(111~112頁)
医者だから言えるリアルがここにある。
このブログを読んでいる貴方(貴女)が、現在何歳なのか知らないが、
今の健康状態のまま100歳になるのではないのだ。
だが、稀に超高齢になっても元気(そう)なスーパー老人もいる(かのようにみえる)。
もう亡くなられたが、元聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏や、
90歳を超えてもなお主演映画などで活躍する某女優などだが、
その女優にしても、その元気ぶりは自然な人間の姿とはとても思えない。
おそらく並外れた努力と巨額の投資が裏にあるのだろうし、
本当の秘訣が(一般に)明かされることはない。
そんな元気(そう)な超高齢者たちも、
取材や撮影が終われば「フーッ」と息を吐き、
シャンと伸びていた背中もくにゃっと曲がり、
家に帰ればさらに緊張は緩み、
年齢相応の老化現象が露出するはずなのだ。
取材班がそこまで撮ることはないし、
視聴者もそこまでは想像しない。
私もよく「お元気ですね!」と周囲の人たちから言われるが、
山から帰れば、家でグッタリしているし、(笑)
「きつかった~」を連呼しているし、
配偶者からは、
「きついなら、なんで自ら望んでそんな疲れることをするんね!」
と叱られている。(爆)
死ぬときに苦しみたくないと、
ポックリ死や老衰死を望む人は多いと思うが、
そのことについても著者は言及する。
ポックリ死は、苦しみなしに死ねると思っているかもしれませんが、いわゆるポックリ死の原因となる心筋梗塞やクモ膜下出血は、激烈な痛みを伴います。クモ膜下出血などは、人生最悪の痛みと言われますし、心筋梗塞も激しい胸痛と絞扼感があります。しかも、その数分の間に、自分はこれで死ぬのか、もう終わりなのかと、リアルな絶望を突きつけられ、後始末も遺言も必要な処理もできず、残された人に迷惑をかけかねない状況で死ぬのが、ポックリ死です。
老衰の死も、眠るように最期を迎えるなどと、安楽なイメージがあるかもしれませんが、老衰で死ぬまでには、恐ろしく長い不自由で不如意でつらい時間を経なければなりません。死ぬほど衰えるわけですから、先に書いた老化現象はほぼすべて出そろって、苦痛の日々をただじっと死を待ちながらすごさなければならないのです。(119~120頁)
身も蓋もない記述だが、これには理由がある。
死を拒み、生を求めるのは、動物の本能ですが、人間が死を恐れるのは、死んだらどうなるかわからないとか、自分がなくなってしまうとかの思いがあるからでしょう。
しかし、死ななければほんとうにそれでいいのでしょうか。長生きを求める人は、ただ単に死にたくないという気持ちだけで思考が止まっていて、実際に長生きをしたらどうなるか、リアルに考えていないように思います。(37頁)
そう、死のリアルな実態を明らかにし、
長生きをただ単に由とし、理想的な死に方を求める風潮を戒めるのだ。
平均寿命も健康寿命も昔に比べると随分と延びているが、
たとえ将来、平均寿命が100歳になったとしても、
誰もが100歳まで生きられるわけではない。
よく言われることだが、
「統計は個人には当てはまらない」
ということだ。
いくら日本人の平均寿命が延びたところで、自分の寿命がどうなるかは、
個々人の持って生まれた体質と生活習慣、あとは偶然に委ねられている。
故に、「寿命が尽きる2年前」と想定して生きることは、
死ぬときに悔いを少なくする良い方法だと思うのだ。
一年前だと、なんだかカウントダウンが始まったようで落ち着かないが、
二年前だとまだ余裕があるので、心づもりをするにはいい時期だと思えるのだ。
私の場合、
(二度目の10代として)「読書」を中心とした10年間というスパンでこれから人生を捉え、
「寿命が尽きる2年前」と想定して死への準備をし、
「今死ねるか?」を日々問い、「その日暮らし」的発想で毎日を、一瞬一瞬を生きる……
ということをこれからの人生の指針としたい。
この記事の冒頭、「敬老の日」の「敬老会」へのお誘いの連絡があったことを記したが、
先程、班長さんから、「敬老会」に出席しなかった人へのお届け物があった。
開けてみると、
赤飯と、紅白まんじゅうと、お茶であった。
早速、配偶者と一緒に赤飯を美味しく頂いた。
……いつの日か(もっと老人になったら)、「敬老会」にも参加することにしよう。