一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

塩見三省『歌うように伝えたい 人生を中断した私の再生と希望』

2021年08月05日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


2年前に65歳で定年退職し、
現在は午後から半日のみ働いている。
決まった公休日というものはなく、
休みはローテーション制なので、日曜日も仕事をしていることが多い。
今年(2021年)の6月20日の日曜日、
出勤のため、車で家を出て、ラジオを聴きながら運転していると、
ちょうど「トーキング ウィズ 松尾堂」(NHK-FM)が始まるところであった。


この日のテーマは、
「心を整え、人生に再生と希望を見い出す」
ということで、ゲストは、
俳優の塩見三省と、
メンタルトレーニング指導士の田中ウルヴェ京であった。


塩見三省という俳優の名前は知らなくても、
出演しているドラマなり映画を見れば、誰しも、
「ああ……」
と呟き、思い出すに違いない。
一度見たら忘れない風貌であるし、
演技におけるセリフ回しや間合いも独特であるからだ。

【塩見三省】(シオミ・サンセイ)
俳優。1948年1月12日生まれ、73歳。(2021年8月現在)
京都府出身。同志社大学卒業。舞台を中心に活動を始める。
1989年より、つかこうへい作・演出の舞台『今日子』『幕末純情伝』『熱海殺人事件~塩見三省スペシャル』の3連作に出演。
1991年、『12人の優しい日本人』を機に映像作品にも活動の場を広げ、
2005年、映画『樹の海』で第15回日本映画批評家大賞・助演男優賞受賞。
映画『Love Letter』『アウトレイジ ビヨンド』などに出演し幅広く活躍、
連続テレビ小説『あまちゃん』の「琥珀の勉さん」役で人気を博した。
2014年に病に倒れるも、懸命なリハビリの後、
2017年、映画『アウトレイジ 最終章』で復活を果たし、
第39回ヨコハマ映画祭・助演男優賞、第27回東京スポーツ映画大賞・主演男優賞を受賞。



彼が病(脳出血)に倒れ、
闘病、リハビリを経て、俳優としての復活したのは知っていた。
だが、詳しいことは知らず、
彼が今年(2021年)6月に本を出版したことも知らなかった。
病に倒れてからの7年間の思いを綴った本だそうで、
タイトルは『歌うように伝えたい 人生を中断した私の再生と希望』。
塩見三省の朴訥とした話を聴きながら、
〈本を読んでみたい……〉
と思った。
後日、その本を手にした私は、
ゆっくりと読み始めたのだった。


確かに私はその日に死んでいてもおかしくなかった。
2014年、その年の東京は例年になく何度かの大雪に見舞われた。そして私は、3月終わりのある寒い日、桜が咲かんとする頃、救急車で都内にある虎の門病院に運ばれた。病名は脳出血。その結果、左半身が麻痺して大きな障害が手足に残った。一瞬にして何もできない身体になった。
66歳の春、ここに来て、この壁を乗り越えるのは、私は無理だと思った。しかし、それからなんと7年もの間、麻痺の残る左足をズリズリと音をたてひきずりながら、片足で一人でこの荒れた道を歩いてきた。
発症した時からあんなに死ぬことを考えてきたのに、今は生きている。生きなければならないのだと思えるようになった。時間はかかったが、この気持ちの差異について考え、その時の流れに伴う変化を書こうとした。こういう個人的な内容がどれだけ読む人に伝わり、関心を持たれるものか私にはわからない。しかし、私にはこうして書き、文章として表現することが必要だったのだ。
(1~2頁)

本書は、このように書き始められていた。
私は67歳になったばかりなので、
今の私の年齢とほぼ同じ頃に彼が脳出血になったことを知り、
「一瞬にして何もできない身体になった」
という記述に、慄然となった。
日頃、このブログで、
「60代はいつ何が起きてもおかしくない年代……」
と書いているにもかかわらず、
実際例を目の当たりにすると、恐れおののいてしまう。

(年代毎の人口を調べてみるなどした)私の独自調査によると、
日本人は60歳までに約1割が亡くなってしまい、
(男性の場合は)70歳までに約2割が亡くなり、80歳までに約4割が亡くなる。
ちなみに、2020年の日本人男性の平均寿命は、81.64歳。

男性の場合、70歳までに5人に1人がこの世から消えてしまう。
5人に1人って、けっこうな確率だ。
60代の男性は、いつ何時、この5人の中の1人に選ばれるやも知れず、
決して他人事ではないのだ。
死なないまでも、病によって動けない身体なる可能性があることも、
肝に銘じておくべきだろう。

(2020年の)日本人の死因は、
がん、心疾患、脳血管疾患の「3大死因」で亡くなる確率が、
男性は約50%、女性が約44%で、
2020年は初めて新型コロナウイルス感染症で亡くなる確率についても発表されたが、
男性は0.28%、女性0.20%であった。
今はコロナ禍で、新型コロナウイルス一色であるが、
統計上、新型コロナウイルスで死ぬことは稀なので、
がん、心疾患、脳血管疾患に注意し、
普段の生活(食事、運動、睡眠など)を大事にしなければならないということだ。

脳出血によって、左半身が麻痺して大きな障害が手足に残った塩見三省が、
なぜ文章を書こうと思ったのか?
それは、星野源との共演がキッカケだったという。

4年前、あるドラマの撮影で星野源君と親子の役で共演した。
彼は以前大きな手術をしており、お互いの胸の内に共通する話題があった。休憩中も二人でソファに座りフラットな気持ちで他愛のないことを話し、楽しい時間を過ごしていた。私は本番中も楽しくて仕方なかった。素敵なスタッフクルーであったし、久しぶりのテレビドラマということもあったからだろう、私にしては少しはしゃいでいたかもしれない。星野君は一緒になって話を合わせてくれていたが、撮影も終わった帰り際に、
「シオミさん、何か書けばいいのに。僕はエッセイであの病気のことを書いて、書くことによって病に対して一区切り付けられたのです。絶対に書くことで何かクリアできますよ」
とセットの隅っこで静かに言ってくれた。
二人にしかわからない共通の想いがある。この楽しい撮影中にも、なにかヒリヒリしたものを彼は私から感じていたのだろう。起きてしまったことへの決着をつける方法を、彼なりに考えてくれたのだと思う。お互いに、あの暗闇の中を経験しただけに、重くて有難いサジェスト(示唆)だった。
(3~4頁)


そして、星野源は、本書の帯に、こう書いている。

あの日、迂闊にエッセイ執筆を勧めて本当に良かった。
僕の友達が、こんなに豊かで激しく生きる力に溢れた本を書くなんて。
全ての“あの暗闇”を知っている人へ、
そして全ての“暗闇”を恐れる人へ、届きますように。




「第1章 私の病との闘い」では、
発症したときの絶望感、
リハビリ中の悲劇、孤立、苦悩が綴られ、
2015年の暮れに出演オファーがあったNHKのドラマ「恋の三陸 列車コンで行こう!」の撮影で大船渡へ行ったとき、何万という「人生を中断された」人たちの思いが、自分の境遇と重なり、胸がいっぱいになった体験を記している。


病や災害にあわれて一瞬で日常を奪われる苦難の後、私のように直ぐには立ち直れない人はきっといると思う。「明日からすぐに前を向く」なんて簡単にはできない。自分の状態を直視して、受け入れるための時間が必要なのだ。世の中はすぐに復興復活を声高に叫ぶ。しかし、ある時一瞬にして日常を失った人たちがその気持ちを立て直すには、それぞれの苦しみに向き合う時間とそれに耐える気持ちが必要だろうし、そうやって立ち直りが後れた人たちを見守る周囲の人の存在も必要だと思う。そして、私たちにはその期間こそが人生の味わいというものだったと思いたい。この災難に振り回されることなく……(59頁)


「第2章 病と共に生きるとは」には、
何でもない日々の記憶と雑感が綴られている。
壊れた脳が、自分にとって一番大切な、大事なことの記憶を無くしていくのではないかという恐怖心から、故郷のこと、父親のこと、母親のこと、学生時代のこと、劇団員の頃のこと、シベリア鉄道での失態のことなど、今のうちに過去の、在りし日のことや人たちの記憶を記しておこうとしたものだ。


故郷のことなどを思い出し、私も子供の頃のことを何か書いてみようと思ったが、やはり思い浮かぶのはずっと前に亡くなった両親のことしかないのであった。
私は老いたのであろう……。
(73~74頁)


「第3章 あの人たちを想う」では、
岸田今日子、つかこうへい、中村伸郎、長岡輝子、植木等、大杉漣など、
過去に寄り添ってくれた、今は亡き人たちの思い出を紐解き、
この人たちと歩んだ日々を思索する。


そうだ、あの人たちは年を取ることがない分、私が想い出す度に、決して忘れまいとする私に優しく寄り添って包みこんでくれるのである。その在り様は決して死者としてではなく、こうして書いていると、私は肉体的、精神的な苦しみを忘れて、あの人たちが今も私の側にいてくれて居ることに驚く。(98~99頁)



「第4章 この人たちと生きる」では、
岸部一徳、長嶋茂雄、三池崇史、岩井俊二など、
生きることの支えになっている人々のことを語っている。


長嶋さんの言葉、「一生懸命にやればできるようになり、もっと一生懸命やれば楽しくなる。そしてもっともっと一生懸命やれば、誰かが助けてくれる!」を心に刻んでいる。苦しく、閉じこもりがちになるこのリハビリを通して本当に考えられない大きな世界を見せてくださっている。(164~165頁)



「第5章 夕暮れ時が一番好きだ」では、
正岡子規に倣って「私の『病狀六尺』」と題して、己の人生観を語る。


私がこの身体で演ることで、人を力づけられたという反応が少しあり、出演本数は以前に比べると極端に少なくなったが、私は自分のやってきた仕事を通して、また何とか生きることができる。そのことがたまらなく嬉しいものであったのだ。(205頁)

私は今、一つのドラマや映画の中で本当の身障者(私なのだが)と俳優が混じりあってバリアフリーな作品が作れたら素敵だなと思う。これからの私が俳優としてトライしていく使命はそこに、そのような場にあるのだとも思い、そんな世界がくることを望んでいるのだった。(209頁)


「第6章 静寂と修羅 北野武監督」では、
『血と骨』で、俳優・ビートたけしとして出会い、
『アウトレイジ ビヨンド』で、北野武監督からキャスティングしてもらい、
病に倒れた後に、
『アウトレイジ 最終章』で再びキャスティングしてもらったことなどを綴っている。
北野武監督から『アウトレイジ 最終章』のオファーが来たときには、
〈まさか!〉
と思ったそうだ。


そして6月、東宝撮影所にて衣裳合わせ。ただこの身体を北野監督に見てもらうという私の勝手な思いのまま杖をつき部屋に入った。4年ぶりに目を合わせる所まで来た。
「こんな身体になりました……」
しかし監督は何も聞こえなかったように平然としていた。
「うん……。それじゃシオミさん、ヨロシクね」
何も聞かれないのである。鳥肌が立った……。私は黙って礼をして踵を返し、足を引きずりながらも何故か精一杯胸をはった。それがその場での最高の嬉しさの照り返しだったのだろう。
(235頁)

塩見三省は、『アウトレイジ 最終章』での演技により、
「第39回ヨコハマ映画祭」で、助演男優賞、
北野武監督が選ぶ「第27回東京スポーツ映画大賞」で、主演男優賞を受賞する。



そして、塩見三省は、最後に、(後書きで)こう述懐する。

この7年は二人にとって確かに辛く苦しいものではあったが、生きることはなんだと自らを問い詰め、毎日を「懸命に生きている実感」があった。健康であった当時、日々をこんなにも泣き笑い、真剣にものを考えて生きていただろうか。以前は健康ではあったが私の生命の力みたいなものは意外とボンヤリとしていて、すり減り、弱っていたのではないだろうか。こうして本を書くということがなければ気づくこともなかったろう。(247頁)



人は誰しも、事故や災害や病によって、人生を中断される可能性があるし、
一瞬にして何もできない身体になることもある。
健康な人でも、老いれば、じわじわと身体が動かなくなり、やがて死を迎える。
私も含め、誰しもが、何の根拠もなく、
〈自分だけは大丈夫!〉
と思いがちだが、
「他人に起こることは自分にも起こる」ということをしっかり意識し、
これからの人生を歩んで行かなければならない。
そんな、真面目なことを考えさせられた一冊であった。

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