一人読書会の第7回は、
ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』。(今回のテキストは新潮文庫の若島正訳)
『ロリータ』(Lolita) は、
ロシア生まれのアメリカ合衆国の作家、ウラジーミル・ナボコフの小説で、
1940年に渡米したナボコフは、
教職のかたわら、この作品を1948年から書き始め、1953年には完成させている。
しかし、性的に倒錯した主題を扱っていること、難解な内容であることから、
アメリカの出版社では刊行を断られている。
結果、初版は、ポルノグラフィの出版社として有名なパリのオリンピア・プレスから、
1955年に出版された。
それでも、グレアム・グリーンらの紹介により読書界の注目の的となったことから、
アメリカでも1958年に出版され、ベストセラーになった。
日本語版は、
1959年に大久保康雄(の名義を借りた高橋豊)訳(河出書房新社)が、
2005年に若島正による新訳(新潮社)が出されている。
刊行から半世紀以上が経ち、
今では“世界文学の最高傑作”と呼ばれるほどになっているのに、
なぜか(私にとっては)これまで手が出しにくい本の一冊であった。
それは、
これまでにフランスやイギリスなどで発禁処分を受けたこともある、
「中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説」という内容にあった。
加えて、
ヒロインの愛称である「ロリータ」は、
今日でも“魅惑的な少女”の代名詞として使われており、
ロリータ・コンプレックス(ロリコン)やロリータ・ファッションなど、
多くの派生語を生んでいることも、
読むことを躊躇させる大きな要因であった気がする。
それなのに、今回、なぜ読もうと思ったのか……
それは、このブログにもレビューを書いた川端康成の『眠れる美女』を再読したことによる。
川端康成がナボコフと同い年であったこと、(共に1899年生まれ)
“魅惑的な少女”を題材にした小説を書いているという二人の共通項、
若島正訳(新潮文庫)が、評判が好いこと、
そして、この文庫版には大江健三郎が解説を書いていることなどが、
躊躇っていた私の背を押した。
読み始めると、序盤はスムーズに読み進めたのだが、
途中から、次第に難解になってきて、読むのに時間がかかった。
一度読んだだけでは理解不能の箇所も多く、“行きつ戻りつ”しながら読み進め、
先日やっと読了した。
新潮文庫版には、40頁ほどの注釈が付けられていて、その冒頭には、
「以下は作品読了を前提に執筆されています。作品の結末に関する言及もあるため、本文読了後にお読み下さい」
という注意書きが添えられていて、読了後に注釈を読むと、
最初に読んだときとは印象がガラリと変わる箇所もあり、
一筋縄ではいかぬ小説であることをあらためて感じさせられた。
読み終えた今は、「文学を読み終えた」という余韻(満足感)に浸っている。
『ロリータ』は、こんな書き出しで始まる。(若島正訳)
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
朝、四フィート10インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。書名欄の点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。
もう、これだけで「やばい」と思わされる。(笑)
作品は、主人公のハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。
(注意:ストーリー紹介は結末に触れています)
1910年にパリで生まれ、ヨーロッパからアメリカに亡命したハンバート・ハンバートは、
現在は、大学に勤務する文学者である。
少年時代の1924年夏に、
アナベル・リー(ハンバートより数ヶ月年下の13歳~14歳)と出会い、恋人同士になるが、
アナベルは出会いから4か月後に発疹チフスにより死別してしまい、
ハンバートはいつまでもアナベルを忘れられずにいる。
一度はヴァレリアという20代後半の女性と結婚もしたが、うまくいかなかった。
1947年、ハンバート(36歳~37歳)は、アナベルの面影を、
あどけない12歳の少女のドローレス・ヘイズ(愛称ロリータ)に見出し、一目惚れをし、
彼女に近づく下心で、その母親である30代半ばの未亡人シャーロット・ヘイズと結婚する。
母親が不慮の事故で死ぬと、
ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を自動車で逃亡する。
しかしロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否する。
そして時間と共に成長するロリータに比して、ハンバートは衰えて魅力を失いつつあった。
1949年7月4日、14歳のロリータは、突然ハンバートの目の前から姿を消す。
その消息を追ってハンバートは再び国中を探しまわる。
3年後、ロリータからの手紙(1952年9月18日発送、9月22日着)が届いたことから、
ついに居所を見つけ出し、訪ねて行くが、
17歳になったロリータは若い男と結婚し、彼の子供を身ごもっていた。
哀しみにくれるハンバートは、
かつて彼女の失踪を手伝って自分の許から連れ出したのは男性の劇作家クレア・クィルティあったことを知り、遂には彼を殺害する。
ハンバートは、しばらく後に逮捕されて、獄中で病死し、
ロリータも出産時に命を落とす。
ストーリーをざっと紹介したが、
本書『ロリータ』の価値は、ストーリーとは別のところにあるような気がする。
大江健三郎が、文庫の解説で、
ここでひとつ「性愛の小説」という枠で囲むとすれば、ハンバートのロリータへの「性愛の小説」は、第一部13章で幸福な結末に至っている。
と述べている通り、ストーリー的な面白さは、序盤で終了する。
文庫本では、小説の本編部分は564頁ほどあるのだが、
5分の1(111頁くらい)の箇所で、ハンバートにとっての幸福な結末を迎え、
一旦終了する。が、直後に、
ハンバートが書きつけてきたロリータへの思いを綴った露骨なノートを母親が読み、
動転した彼女は、ロリータにそのことを書いた手紙を投函しに行く途中で事故死する。
そして、ハンバートとロリータのアメリカ全土の安ホテルを転々とする旅が始まる。
ここからが長い。(笑)
ストーリーもあまり進展しない。
ストーリー展開の面白さを追い求める人にとっては退屈だろうし、
気が短い人は本を投げ出すかもしれない。
ロード・ノヴェル的な部分が、435頁くらいまで続く。
そして、ロリータが姿を消すことによって、最後の展開へと突き進んでいく。
このラストへの展開は面白いし、読ませる。
だが、この小説の価値はどこにあるかというと、
やや面白味に欠け、ロード・ノヴェル的要素のある、中間部の、
「ハンバートとロリータがアメリカ全土の安ホテルを転々とする旅」の部分にあると言える。
なぜなら、この部分こそが、文学だからだ。
絢爛たる言語遊戯が延々と続く、
文学的言及や語りの技巧に満ちた文章は、
ポストモダン小説の先駆けとも言え、
ポルノ小説まがいのベストセラーから、
20世紀文学を代表する芸術的小説作品へ、現代文学への古典へと、
読者の意識を大きく変換させる部分であるからだ。
『ロリータ』は、何度も読み直すたびに新しい発見が次々と現れてくるような小説である。「人は小説を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ」という、『ヨーロッパ文学講義』でのナボコフ自身の名言どおりに、『ロリータ』も読み直したときに初めて気がつくような仕掛けにあふれている。
と、訳者の若島正氏も語っているように、
初読よりも再読、再読よりも再々読の方が、より楽しく、面白く読めるような気がする。
『ロリータ』の日本語版が出版されたのが、1959年(昭和34年)で、
川端康成の『眠れる美女』の連載が始まったのが1960年(昭和35年)なので、
川端康成は当然『ロリータ』を読んでいたことだろう。
題材の酷似だけではなく、
私は強力な睡眠薬を母親と娘の両方に処方して、まったく何の咎めもなく後者を一晩じゅう愛撫する姿を想像してみた。(128頁)
私はいろいろな睡眠薬を実験して、薬を服用するのが大好きなシャーロットにためしていた。いちばん最後に投与した薬は(彼女はそれを神経鎮静のおだやかな臭化カリウム錠だと思っていた)丸四時間も昏睡状態にさせた。(169頁)
など、睡眠薬で女性を眠らせるところや、
主人公の周囲には常に「死」がつきまとっているところなど、
似ているところが多く、
〈川端康成は『ロリータ』から大いに影響を受けたのではないか……〉
と、私に思わせた。
丸谷才一が『新潮』に書いた「思ひで一つ」という随筆に、
川端康成にナボコフの『ロリータ』について「あれはどうです?」と訊いたという話が出てくる。
川端は「あれは、きたない」と答え、
丸谷は「でも、先生もきたなく書くことはあるでしょう」と言い、
川端は「いや、そういうことでなく……」と口ごもったという。
同族嫌悪のようにも思えるが、
『ロリータ』を美しく描いたのが川端康成の『眠れる美女』であったのかもしれない。
書きたいことは多いのだが、
このレビューを長々と書いていると、他の本を読む時間を奪われてしまう。
70代は二度目の10代ということで、
今は一作でも多く、名作と言われる小説を読みたいし、
これからは、できるだけ短い文章で感想を書きたいと思っている。
乞うご期待……と言いたいところだが、
あまり期待せずにお待ちください……と言っておこう。(笑)