三宅酒店隣はタイムズ倉敷第3である。その駐車スペースの奥側に建つ地蔵堂。地元の榎木峠よりも頻繁に倉敷市街地を歩いている私だったが、見落としていた。現・中央1丁目はかつて前神町(まえがみちょう)と呼ばれた。市のホームページの旧町名保存事業の項に掲載された解説は次の通り。
今橋から新前神橋付近までの倉敷川西岸の区域。天保12年(1841)には,村会所が置かれるなど,昭和7年までの倉敷市政治の中心地であった。昭和46年12月に廃止された。



私はバッグから「向山・船倉大正十年頃絵図」の拡大コピーを取り出して三宅邸が「前神橋」西詰近くにあるのを確認した。倉敷川(汐入川)に架かる「新前神橋」を渡り東へ進む。小舟が運河を行き来した頃、アーチ状の橋だったのは納得できる。


観光客は美術館周辺からアイビースクエア(倉敷代官所跡)へは移動するが、南側の小山へ登ることはまずない。私は「番匠屋」の手前で右折し岡山県道22号に入った。「船五湯」向かいの家が解体されて無くなっていた。


にほんブログ村
今橋から新前神橋付近までの倉敷川西岸の区域。天保12年(1841)には,村会所が置かれるなど,昭和7年までの倉敷市政治の中心地であった。昭和46年12月に廃止された。



私はバッグから「向山・船倉大正十年頃絵図」の拡大コピーを取り出して三宅邸が「前神橋」西詰近くにあるのを確認した。倉敷川(汐入川)に架かる「新前神橋」を渡り東へ進む。小舟が運河を行き来した頃、アーチ状の橋だったのは納得できる。


観光客は美術館周辺からアイビースクエア(倉敷代官所跡)へは移動するが、南側の小山へ登ることはまずない。私は「番匠屋」の手前で右折し岡山県道22号に入った。「船五湯」向かいの家が解体されて無くなっていた。


にほんブログ村