家の周りも賑やかになってきた。昨日、今日と気温が高い影響で桜の開花も早まるとのことだ。
冬の間、楽しませてくれた椿も最終花となってしまった。これからは実を摘み取って、秋まで二回ほど「チャドクガ」の発生に備えなければならない。写真はお気に入りの「岩根絞り」だ。
骨折してから軽作業もせずにいたが、ローズマリーが伸びきったので刈り込んでやった。ついでに自分の頭も三ミリで刈った。
禿げた額ほどの庭にも雑草が目に付くようになったから草取りもしてみた。ジャーマンアイリスも自宅軟禁していたうちに随分葉が伸びている。
花ニラも雑草のうちだけど邪魔にならないからほっといたらあちこちに繁殖してきた。コロニーを眺めているのも「春だ」という気分になる。
三つ葉アケビも蕾が膨らんできた。食用というより「アケビコノハ」の寄生が楽しみなのである。
気張って「オイランソウ」の移植もしてしまったから痛みがぶり返すのかどうか、今夜が恐ろしい。
『花便り既に散りたる花もあり』
『来い来いと飛んでは落ちるタテハチョウ』
『蜜なめて酩酊したかモンキチョウ』
『草萌えてミドリシジミも深き青』
『チョットコイ呼ばれて立てばホーホケキョ』
『創作の和食なるかな目も美味し次はあらねど閉店ならば』
『会食もやがて寂しき月の道』
『ふきのとうマシュマロのごと膨らめばとう立つ前の味噌の美味さよ』
『冬篭り明けておいしや旬の春』
山菜は新鮮さと苦味が一番のご馳走だ。中でもアケビの新芽が横綱級と思う。
当地では目もくれず異端視されるがもったいないことだ。
郷里では八百屋に並ぶし、どんぶりで食べた記憶がある。
独活のゴマ味噌和えもおいしい。
コゴミ、ウルイ、タラの芽が三番手にしよう。
コシアブラをだした飲み屋があったが、気合は買うけどおいしいとは思わない。
ノビルやアサズキにして欲しい。味噌を添えて。
今日から彼岸だ。ようやく歩くのに苦労しなくなったが注意は必要だ。県内の南部に開花宣言が今日出た。
ソメイヨシノではないが写真の木はもう散りかけている。小生の生活圏の中では早い個体だ。フイールドにある豆桜も一本だけ満開になっていた。他のものはまだ蕾も固い。
スミレも見る間に花を沢山上げてきたが、花が多くなると蝶々も目に付く。今日は3種類が撮影できた。標準レンズだから接近するのに苦労する。
深夜、耳に突っ込んであるイヤホンから「時は無慈悲に」なんてのが意識に入り目が覚めた。「深夜便」のテーマだそうだが深夜に聞くと暗い歌だ。昼間ではそうでもなかったが。
実際は無慈悲も慈悲も抱合しているのであろう。「人生万事塞翁が馬」とか「禍福はあざなえる縄の如し」とか。骨折してみて両方感じているのが実感だ。
『松葉掻く秋香ただようその日まで尽きぬ手仕事尽きるか定め』
『建前は山に運べど我が魂は岸辺はなれて泥田にもがく』
『喉渇き海水を飲む我ならば舟漕ぎ出すも彼岸に立てず』
『記念樹を見やり声かけ山に入る今日も一日難事無きよう』
『荒還も阿羅漢となる赤子かな』
さてさて、陽気に誘われて散歩代わりにフイールドに出向く。狙いはヒキガエルの卵塊の様子とショウジョウバカマの撮影だった。
卵塊は核が長く成長していた。ショウジョウバカマは既に盛りが過ぎ、撮影するのは可愛そうな姿であった。途中、山桜が既に開花しているのが1本あったが、ケータイのカメラでは空をバックでは綺麗に写らなくて、出直しすることにする。
草地に誘導している部分は、タンポポ、スミレの株が昨年より増えている。暖かい日差しに誘われて親子連れも何組か遊んでいた。自宅軟禁の二週間で春は大きく前進していたのだ。
タンポポと蓮華草で髪飾りを編む
まだ出来ぬうちから手に取りたがる
眠くなってきたのか手が暖かい
髪に乗せてあげると母のところに一目散だ
まるで子犬だなあ…と思いつつ、陽炎のような一時だった
『雨音が時を刻みて夜も半ば』
『春嵐音の嬉しき暗き窓』
『小窓打つ風を数えて長き夜』
『雨流るほこりの筋を数えたり』
身体は正直、考えが甘かった。自己欺瞞で形成した希望的観測は「春の嵐」とともに流れさってしまった。
仰臥すれば圧力がかかる患部だから、肋骨骨折にしては呼吸は楽だったが臥位に差し障りが出るとは思いもよらなかった。
引き金は本当に微妙で、体位の数センチの違いで「こむらがえり」に似た激痛がくる。トリガーポイントはもちろん骨折部位に相違ないが、痛みは前胸部に発生して、このごろは軽い筋肉痛にも似た影響がそこに出ている。痙攣している感覚を生じてしまうのだから当たり前か。
座位のまま、前へ後へと半身を預けての一夜となったが、春の嵐は退屈しのぎにはなったようだ。天空の風の唸りは自身のうめきを一時とは言え消してくれたのだから。
座位で眠らなければならなくなって十二夜になった。そろそろ眠るのに疲れてきた。未明にブザーの音で目が覚めた。「ブザーなど無いのに」と思いつつ気がついたら、それはイヤホンから聞こえてきたチェロの音だった。
ヨーヨーマ氏の「無伴奏チェロなんとか」という曲だった。「おくりびとの」のチェロも優雅だったが「ブザー音」と思ったのはヨーヨーマ氏に悪いことをした。
明日はホワイトデーだが、小生は春眠中につき「麗しき女性の皆さん、クッキーはありません。悪しからず。」と、こんな時は強がりも精神衛生上大切だ。
痛みも和らいできたので買い物に出た。「リハビリ食」と考えて、豚の軟骨、干し椎茸、ニラ、アスパラ、ニンジン、生姜を圧力鍋で加圧後、佃煮風に仕立ててみた。
見た目が悪いので写真は取りやめたが結構おいしかった。軟骨も熱湯をくぐらせて圧力鍋で調理したから歯ざわりも快適だった。
コラーゲンたっぷりのはずだから、今晩は仰臥で寝ることに挑戦する・・・のだ。「座眠、暁はまだか?」という夜は今日でおしまい(のはず)。
『冷えたろに初鳴きの夜はアマガエル』
『稚魚群れる川辺に降りしつがいかな』
『幼子は水辺母御は立ち話』
『菜の花の香り溢れし土手の道』
今朝、鶯の初鳴きを聞いた。アマガエルは10日に土手散歩中に聞いた。昨夕は家の近くで鳴いてくれた。
桜便りは暖冬のせいで平年より10日ほど早くなるとの予報だが、鶯の初鳴きは遅れたのでさてどうだろうか。
昨年も開花予報より遅れたはずだ。ところで桜の開花日より気になるのが「ツバメの飛来日」なのだ。桜の開花予想日が20日とすればツバメは23日頃か?
自分なりに28日を基準日にしているけど、暖冬だったといってもそれほど飛来が早まるとは考えられない。横になれなくて睡眠不足の身には、こんなことでも考えていないと夜も昼も長い。
まあ、何の役にも立たない類ですけど…。しかし土手の散歩途中に風向きによっては溢れかえるほどの香りが来る菜の花の匂いは「春だなあ」を実感させる。早春の水仙の香りより爽やかだ。
『カルガモや葦原消えし水に浮く』
『黄砂かと思えば杉の花粉かな』
『杉の花アセビドクセリトリカブト』
谷あいの水溜りにガマの卵塊がいっぱいあった。水辺の動物も容易に姿を見かけるようにもなった。
郷里での蛙の卵塊は雪の残る田んぼで見ることが多かった。すくって遊んだものだが蛙の種類は何だったのだろうか。
蛙の産卵前の水辺の楽しみはネコヤナギを取りに行くことだった。硬くしまった雪原を歩いてゆくのは楽しいものだったが、危険も大きかった。
小川の上の雪は薄くなっていたし、川が見えていても両脇の雪庇は薄く脆い。でもネコヤナギはこんな場所に自生していた。
近所の餓鬼仲間で落水したのは記憶にないが、大川の土手にフキノトウを採りに行ったり魚釣りの人が転落水死の報は珍しいことでもなかった。
突然、半鐘が鳴ると大人たちは「川流れだー」といっせいに大川に駆けていったものだが、雪解けで増水しているし、川辺に下りることも困難だったから、大抵は悲惨な結末だったように記憶している。
当地ではそんなことは皆無だが、卵塊のある水溜りはお天気次第で干上がるし、昨年まであった葦原は重機で根こそぎ駆逐されたからカルガモの営巣もヨシキリの飛来も今年は見込めなくなった。
黄色は幸せを呼ぶ色だとか。確かに早春の黄色の花色は北国の生まれ育ちの小生には春を象徴する「嬉しい色」には違いない。
その色の里山代表は自分的にはマンサク・タンポポ・菜の花だ。昨日のラジオでは越の国のどこかでマンサクが咲いたことを報じていた。
今日も日差しが出てきたので、胸を押さえながら川辺を歩いてみた。緑も花数も多くなったと感じずにはいられない。住居の周りにはジキタリス、エニシダなどの黄色が目立つが、タンポポや菜の花とは明らかに心象が異なる。前者は毒があるし、後者は食べておいしい春の味覚だけど、それだけではないような気がしている。
遊歩道脇に植栽されたトチの木の新芽は樹液を溢れさせて膨らんできた。日差しを反射してつややかだ。カラフルな園芸種よりこちらのほうが幸せ感がする。ちなみにクヌギ、コナラなどの冬芽はまだ硬かった。
元『春はただ花のひとへに咲くばかり物のあわれは秋ぞまされる』 読み人知らず
新『春はただ花の人へと裂くばかり者の哀れは飽かれ勝れし』
元『春過ぎて夏来るらし白袴の衣乾したり天の香具山』 持統天皇
新『張り過ぎて熱来るらし代田植え子ども辞したる雨の時止み』